古典期前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 14:16 UTC 版)
おおよそ紀元前201年から紀元前27年までの間には、法が時代の必要に合わせてより柔軟に発展していった。第二次ポエニ戦争で勝利したローマは、その勢力の拡大と共に外国人に関する法律問題に対処する必要が生じたが、古い形式的な「市民法」はこれに対処することができなかった。十二表法で定められた民事訴訟手続は、ローマ市民のみに適用され、確定文言によって訴権を定める厳格な形式性・保守性を特徴とする儀礼的なもので、一度間違えるとやり直しがきかず、原告が敗訴するという硬直性を有していた。 このような必要に応じて法務官法(英語版)ないし名誉法が登場すると、古い形式主義を修正する万民法という新しいより柔軟な原理が採用された。新たな必要に法を適応させてゆくという方法論は、法律実務や公職者、そして特に法務官にはすっかり定着した。法務官は立法者ではなく、告示を発する場合にも、技術的には新しい法を創造したわけではなかった。しかし、実際には、法務官が判定した結果は法律上保護され(訴権の付与)、事実上新しい法規制の源となることもしばしばあった。後任の法務官は前任の法務官の告示に拘束されなかったが、前任者の告示が有用なものであることが明らかになれば、後任者もその告示を援用して判定を示していた。このようにして永続的な内容が創造され、告示から告示へと受け継がれていった。 こうして、時代の流れを超えて、法務官法という新しい体系が登場し、市民法と併存しながら、これを補充し、修正していたのである。実際にも、有名なローマ法学者アエミリウス・パーピニアーヌスは、法務官法を次のように定義した。「法務官法は、市民法を公共の利益のために補充し、あるいは修正するために、法務官によって導入された法である」。 やがて方式書訴訟は、ローマ市民にも適用されるようになっていき、十二表法で定められた形式的な民事訴訟手続は廃止され、後に市民法と法務官法は市民法大全において融合するに至るのである。
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