古典期後期終末(バヤル相、A.D.830 - A.D.930ころ)
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「セイバル」の記事における「古典期後期終末(バヤル相、A.D.830 - A.D.930ころ)」の解説
バヤル(Bayal)相の時期に、他のマヤのセンターが衰退し放棄されていくのをしり目に、セイバルは、繁栄の頂点を極めたとされる。その中心はグループAであった。高さ18.5mに達するセイバル最大の構築物A-24と北、中央、南の三つのプラザが完成し、球戯場(A-19)が築かれた。豊富な副葬品を伴う埋葬や多数の「供納穴」が築かれ、祭祀の中心になったと考えられる。 また、セイバルの名を知らしめることとなったグループA「南プラザ」に構築物A-3とその周囲の石碑群がこの時期に築かれた。構築物A-13は、一辺18mほどの四方に階段を持つほぼ正方形のプランをもつ建物で、3段で高さ4m弱の基壇の上に高さ5mほどの神殿が建てられている。神殿の上部は彩色の施された漆喰のレリーフが施されていた。東西南北それぞれ3体の人物像が刻まれ、神殿の角には一体ずつ計4体の人物像が貼り付けられていた。人物像の間には、最下段に象形文字が刻まれ、その上中央には座った人物がいて両脇に猿や鳥などの動物や模式的な植物が刻まれていた。座った人物の上にはそれぞれ2文字ほどの象形文字が刻まれていた。階段の前には、それぞれ四方に祭壇を伴う石碑が、東西南北順に11号、9号、8号、10号が建てられている。興味深いのは北側の石碑10号に伴う祭壇の上面に「田」の字状の刻文が見られたことである。これは、インド双六と酷似していることで知られるパトリ・ゲームのゲーム盤と同じもので、アステカの時代までギャンブルにも使われたことでも知られている。周囲の石碑に10バクトゥンの長期暦の日付と、「メキシコ中央高原」風の人物像が刻まれていることとともに、古典期終末期のメソアメリカ圏の人の動きについて、研究者間でその性質について議論する材料を提供することとなっている。 グループCにおいては、バヤル相に構築物C-18が完成し、グループDとグループAを結ぶ堤道Iと堤道IIIが築かれた。また堤道IIが構築物C-79の場所まで伸びるようになったことが確認されている。また小規模な建造物のグループであるユニット群が多数建設された。ユニットC-10の埋葬28号、ユニットC-32の埋葬26号、ユニットC-33の埋葬2号と埋納遺構8号がこの時期に造られた。 また構築物C-79では、高さ3.7m、直径17.5mの円形に近いプランを持つ建造物が以前の建物を覆って造られた。階段は西側に設けられ、円盤状の石を動物もしくは人物と思われる石彫で支える祭壇1号が築かれた。丸いプランのピラミッドはメキシコ中央高原や西部に散見されることからも、構築物A-3とその石碑群とともに注目される。 グループDでは、D-41、東プラザ、「中庭A」の地表からバヤル相に相当する時期の土器片が確認されており、堤道IIIの東端部分周辺にあたることからも堤道IIIの構築時期が示唆される。また東プラザから埋葬15号が確認されている。
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