双方の態勢
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「グースグリーンの戦い」の記事における「双方の態勢」の解説
5月21日にイギリス軍がサン・カルロスに上陸して以降、アルゼンチン軍の抵抗は航空攻撃に限られていた。一方、イギリス軍の側は、上陸以降の作戦については事前の計画は乏しかったが、これらの情勢から、任務部隊司令部ではアルゼンチン軍の積極性について楽観的な見方が広がっていた。第3コマンドー旅団長トンプソン准将は、25日にはケント山からチャレンジャー山にかけての地域に大規模なヘリボーン作戦を行ってスタンリー攻略の地歩を固めることを企図していたが、同日の「アトランティック・コンベアー」の喪失によって多数のヘリコプターが失われ、この作戦は実行不能となった。 スタンリーに進出する前に、まずグース・グリーンとダーウィンに駐屯するアルゼンチン軍を攻撃する必要があった。トンプソン准将はもともと、グース・グリーンに対する(占領を前提としない)襲撃作戦を計画しており、22日には第2空挺大隊長ハーバート・ジョーンズ中佐に作戦立案を下令していたが、「アトランティック・コンベアー」の喪失を受けて、この作戦は第5歩兵旅団とヘリコプターの増援を待って行う方針としていた。しかし逆に、ロンドンの任務部隊司令部と政治家は、この喪失を補うためにも何らかの行動を示すべきであると考えるようになっていた。結局、26日にトンプソン准将が任務部隊司令部と衛星通信で直接話し合い、グース・グリーンへの攻撃とスタンリーへの進撃にむけた機動を始めるよう命令をうけた。 一方、アルゼンチン軍において、グース・グリーン防衛の主力部隊となっていたのは第12連隊であり、連隊長はイタロ・ピアッヒ中佐であった。連隊の兵士の半分以上は2月に徴兵されたばかりで訓練はほとんど完了しておらず、舶送される予定の重装備も到着しておらず、人員・装備ともに不十分な状態であった。部隊の抽出や配属があり、28日の時点でグース・グリーンに配備されていた部隊は総兵力1,007名、歩兵3個中隊を基幹として105mm榴弾砲3門、120mm重迫撃砲(状態不良)1門、81mm迫撃砲3門、35mm対空機関砲2門などを保有しており、メルセデス任務部隊と称された。
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双方の態勢
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アルゼンチン軍においてフォークランド諸島の占領を担当したのは、カルロス・ブセル海兵隊少将を指揮官とする第40.1任務群であった。上記の通り海兵隊第2歩兵大隊を基幹として、上陸特殊作戦中隊および水中障害破壊部隊、野戦砲兵などを配属されていた。主たる攻撃目標は総督公邸と海兵隊兵舎であり、多方面から圧倒的に優勢な兵力で奇襲攻撃することで、できれば流血無しに占領することを企図していた。 イギリス側では丁度同地の警備に当たる海兵隊分遣隊が交代の時期を迎えたタイミングで情勢が緊迫し、大使館付武官の助言を容れて交代を中止したため、定数の倍にあたる69名の海兵隊員が駐在していた。また「エンデュアランス」から陸戦隊11名が派遣されていたほか、同地に住んでいた退役海兵隊員1名が再志願して加わっていた。海兵隊指揮官マイク・ノーマン少佐は、侵攻を受けた場合、緒戦で可能な限り激しい打撃を加えて交渉の時間を稼ぐことを企図していた。
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双方の態勢
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アルゼンチンはサウスジョージア島占領のため、セサル・トロムベタ海軍大佐を指揮官とする第60任務群を派遣した。これは極地輸送艦「バイア・パライソ」とコルベット「ゲリコ」から構成されており、艦載ヘリコプター2機と海兵隊員80名が乗り込んでいた。 サウスジョージア島には、研究者等を除けば定住者はなく、通常は軍隊の配備もないが、廃材回収業者のサウスジョージア島上陸への対応措置として、3月24日より、氷海警備艦「エンデュアランス」と、ミルズ中尉 (Keith Mills) 指揮下の海兵隊員22名が警戒活動にあたっていた。その後、海兵隊は3月31日に下船し、グリトビケンのイギリス南極探検隊 (British Antarctic Survey) の基地に駐屯した。4月1日には、ハント総督によるフォークランド諸島民へのラジオ放送が受信されたほか、4月2日には、BBCワールド・ニュースによって、アルゼンチンによるフォークランド侵攻が報じられた。国防省からの指令を受けて、「エンデュアランス」はアルゼンチン軍に見つからないように離れつつ情報収集母体として活動することになり、ミルズ中尉は、猛烈な嵐のなかで防御陣地を構築し、また海岸と桟橋に鉄条網と爆発物を敷設させた。
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双方の態勢
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5月21日にイギリス軍がサン・カルロスに上陸して以降、アルゼンチン軍の抵抗は航空攻撃に限られていた。一方、イギリス軍の側は、上陸以降の作戦については事前の計画は乏しかったが、これらの情勢から、任務部隊司令部ではアルゼンチン軍の積極性について楽観的な見方が広がっていた。第3コマンドー旅団長トンプソン准将は、25日にはケント山からチャレンジャー山にかけての地域に大規模なヘリボーン作戦を行ってスタンリー攻略の地歩を固めることを企図していたが、同日の「アトランティック・コンベアー」の喪失によって多数のヘリコプターが失われ、この作戦は実行不能となった。 スタンリーに進出する前に、まずグース・グリーンとダーウィンに駐屯するアルゼンチン軍を攻撃する必要があった。トンプソン准将はもともと、グース・グリーンに対する(占領を前提としない)襲撃作戦を計画しており、22日には第2空挺大隊長ハーバート・ジョーンズ中佐に作戦立案を下令していたが、「アトランティック・コンベアー」の喪失を受けて、この作戦は第5歩兵旅団とヘリコプターの増援を待って行う方針としていた。しかし逆に、ロンドンの任務部隊司令部と政治家は、この喪失を補うためにも何らかの行動を示すべきであると考えるようになっていた。結局、26日にトンプソン准将が任務部隊司令部と衛星通信で直接話し合い、グース・グリーンへの攻撃とスタンリーへの進撃にむけた機動を始めるよう命令をうけた。 一方、アルゼンチン軍において、グース・グリーン防衛の主力部隊となっていたのは第12連隊であり、連隊長はイタロ・ピアッヒ中佐であった。連隊の兵士の半分以上は2月に徴兵されたばかりで訓練はほとんど完了しておらず、舶送される予定の重装備も到着しておらず、人員・装備ともに不十分な状態であった。部隊の抽出や配属があり、28日の時点でグース・グリーンに配備されていた部隊は総兵力1,007名、歩兵3個中隊を基幹として105mm榴弾砲3門、120mm重迫撃砲(状態不良)1門、81mm迫撃砲3門、35mm対空機関砲2門などを保有しており、メルセデス任務部隊と称された。
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双方の態勢
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アルゼンチン軍は6月8日の航空攻撃の戦果を過大評価しており、500~900名の戦死者を出したものと評価された。これを受けてアルゼンチン本国は高揚し、さっそくマルビナス諸島総軍司令官メネンデス少将に対してフィッツロイの攻撃を要求したが、メネンデス少将は、部隊の機動力の欠如と航空・海上優勢の喪失、そしてイギリス軍の攻撃が先行するであろうことから不可能であると結論し、本国からの支援を求めるため参謀長ダエル少将をブエノスアイレスに派遣した。しかしガルチェリ大統領は、既にマルビナス諸島にはイギリス軍を撃退できるだけの十分な兵力を配しているとして、死守命令を下した。 6月7日には第3コマンドー旅団はケント山の斜面に移動しており、11日には、イギリスの地上部隊は攻撃開始の準備ができていた。双方の地上戦力はほぼ同程度であったが、アルゼンチン側は航空優勢は「ほぼ」、海上優勢は「完全に」失った状態であった。またアルゼンチン側は防衛側であり数週間前から陣地を準備できるという強みはあったが、イギリスがスタンリーに直接上陸してくると想定していたため、防御方向は海側(西側)を指向していた。5月26日には、アルゼンチン軍も、イギリス軍がサン・カルロスから陸路進撃してくる公算が高いことを認識したものの、依然として、イギリス軍が再度、今度はスタンリーに近いところに上陸作戦を行う可能性が高いと考えていたため、サン・カルロスからの進攻に対応できるよう南側に部隊を再配置することはなかった。 イギリス軍においては、第2空挺大隊とウェールズ近衛大隊が第5旅団から第3コマンドー旅団の指揮下に移されて、体制が強化された。第5旅団長ウィルソン准将はこの措置について、海兵隊員であるムーア少将が海兵隊を贔屓したのではないかと考えたが、これは6月8日の航空攻撃で第5歩兵旅団が損害をうけたことと、そしてムーア少将がウィルソン准将の能力に疑問を抱いたためであった。ロンドンの任務部隊司令部はもともとウィルソン准将の能力を不安視しており、ムーア少将は最初はこれに同意していなかったが、この時点では、トンプソン准将であれば3個大隊の戦闘を指揮できるのに対し、ウィルソン准将は2個以上の大隊の戦闘を指揮すべきでないと考えていた。
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