双方の被害とソーマレズの授爵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 14:50 UTC 版)
「1793年10月20日の海戦」の記事における「双方の被害とソーマレズの授爵」の解説
この交戦で2隻共損害を受けたが、ソーマレズの「クレセント」の方は基本的に索具の損傷にとどまった。船体への直撃は少なく、唯一貫通した砲弾は甲板を横断し、「クレセント」の乗員を負傷させることなく、反対側の大砲に接触し、岸から近づいて来ていた、多数の小型小砲艦の方角に暴発させただけだった。「クレセント」の死傷者の数も同様に少なく、1人が負傷したのみだった。その負傷者は、片舷斉射が始まった時、大砲のかなり近くに立っていたため、反動で後退した大砲と接触し、脚を骨折したのだった。フランス艦の方の損害と死傷者は甚大だった。索具はぼろぼろにされ、船体とロワーマストは何度も直撃を受けていた。フランス側の死傷者は、ソーマレズは当初120人以上と見積もったが、フランス側の記録では33人が戦死、48人が負傷と低くなっている。 ソーマレズのこの海戦は、フランス革命戦争中のフリゲートの戦闘では、その4か月前の1793年6月18日の海戦(英語版)における、エドワード・ペリューのクレオパートル(英語版)捕獲に次ぐ2番目の成功例となり、大きな称賛を受けた。。この報酬として、ソーマレズはジョージ3世からナイト爵に叙せられ、ロンドン市から記念の皿をもらったが、後にソーマレズは103ポンド6シリング8ペンス(2013年現在で1万500ポンドの価値)の「ナイト爵の栄誉」とある請求書を、クックという人物から受け取った。ソーマレズはこれを断り、クックに、ペリューが功績を挙げた後のナイト爵授爵に、金を支払った者すべてに請求するように伝えた。後にソーマレズは兄弟にこう書き送っている。「私の行ったことが爵位を受けるに値すると思われてのことなのだから、その栄誉に金を払えと言われるのは耐え難い」この授爵を評して、彼は後に、チャネル諸島からノルマンディー沿岸への作戦戦隊の指揮官を命じられた。加えて、一等海尉のジョージ・パーカーがコマンダーに昇進し、他の2人の海尉もまた評価された。「レユニオン」は修理の後イギリス海軍が購入し、12ポンド砲を搭載した36門フリゲート、リユニオン号となった。1792年2月4日のロンドンガゼット(英語版)で、「レユニオン」拿捕の賞金の支払いが認可された。この総額は5239ポンド(2013年現在で50万9600ポンドに相当)で、「クレセント」と「キルケ」の乗員で分配された。それから50年以上たって、この戦闘が海軍メダル(英語版)のバックルを授与するに値するとされ、1847年当時に存命であった「クレセント」の乗員を対象に授与された。
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