双方の誤解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 16:06 UTC 版)
「ブラック・ホーク戦争」の記事における「双方の誤解」の解説
しかし、そもそもの紛争の原因は、白人がブラック・ホーク酋長を「指導者」だと誤解したことにあった。白人たちはブラック・ホークと条約を結べば、ソーク族もフォックス族も黙ってこれに従うだろうと考えたのである。しかし、インディアンの社会は基本的に合議制であり、その合議の調停者、つまりチーフ(酋長)としてブラック・ホークは白人との交渉役を引き受けたのであって、調停役が白人と交渉事を行ったとしても、部族全体はその方針に何ら拘束されないものである。インディアンにとって、それはあくまでブラック・ホークと白人の個人的な取り決めにすぎないからである。 当然ながらこの白人の要求は、ブラック・ホークや部族内で論争になった。上述したように白人はブラック・ホークを「大指導者」と勘違いして彼と条約を結んだことで全部族の了解を得たつもりでおり、部族の全体会議に何も相談がなかったからである。また、部族を代表する者には土地を売り渡す権限がなかった。というよりも、「部族を代表する者」などインディアン社会には最初から存在しないのである。 ブラック・ホークやソーク&フォックス族がイギリス軍と同盟し、アメリカ軍と戦った(米英戦争)後、ブラック・ホークは「1804年条約」を再確認した「1816年5月の条約」に署名(×印を書くだけである)したが、そのことを彼は後に「知らなかった」と抗議した。ブラック・ホークはあくまで酋長(調停者)であり、「部族の全権を委任されたもの」でも「代表」でもないから、白人の彼に負わせようとしている責任は、全く理不尽なものだった。ブラック・ホークが米英戦争の前線を離れている間に、ソーク族のケオククが頭角を現し、この2人の関係は対立関係になっていた。 イリノイの入植白人人口は米英戦争の後で一挙に膨れ上がり、1820年には5万人を越え、1830年には15万人に達していた。1825年、13名のソーク族と6名のフォックス族が1804年条約を再確認する新たな同意書に署名した。白人たちはこの「署名」で部族の公認を得たものと解釈し、1828年、アメリカ合衆国政府の連絡窓口であるトマス・フォーサイスは、インディアンたちにミシシッピ川以東の集落を明け渡すよう通告したのである。 ここでも合衆国は大きな思い違いをしていた。13名のソーク族と6名のフォックス族が同意書に署名(X印を書くだけである)したとしても、インディアンにとっては、それは彼らの部族と何の関係もない個人間の同意にすぎないのである。 1830年7月15日、アメリカ合衆国インディアン担当理事ウィリアム・クラークは、ウィスコンシン州プレーリードゥシーンのクロウフォード砦で、ソーク&フォックス族と新たな条約調印を行った。 この条約は「10万7千㎢のソーク族の土地をアメリカ合衆国政府に譲渡させる」というものだった。この条約では、ソーク族およびフォックス族と彼らの伝統的な敵であるスー族との間に「中立地帯」を設けて、今後敵対的な部族間の争いが起こらないようにしていた。 この条約にはケオククが署名(×印を書くだけである)し、1830年11月にはダコタ・スー族に承認された。 もちろん、ケオククの同意署名は、部族民すべての同意とは無関係である。「すべてを共有する」という文化を現在でも重んじるインディアンにとって、白人のこの退去命令はまったく理解できなかった。
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