原子力について
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「永井隆 (医学博士)」の記事における「原子力について」の解説
1945年8月-10月の救護活動をまとめた『原子爆弾救護報告書』の結語で、永井は原子力の利用に対して肯定的な考えを述べている。 すべては終った。祖国は敗れた。吾大学は消滅し吾教室は烏有に帰した。余等亦夫々傷き倒れた。住むべき家は焼け、着る物も失われ、家族は死傷した。今更何を云わんやである。唯願う処はかかる悲劇を再び人類が演じたくない。原子爆弾の原理を利用し、これを動力源として、文化に貢献出来る如く更に一層の研究を進めたい。転禍為福。世界の文明形態は原子エネルギーの利用により一変するにきまっている。そうして新しい幸福な世界が作られるならば、多数犠牲者の霊も亦慰められるであろう。 また、『聖母の騎士』1947年2月号には原子力が利用される時代を以下のように描いている。 稲の大敵二百十日の大風は(中略)太平洋の真ん中で大きな原子爆発を起こして気圧の変動を作り、それによって大風の進路を変えて、日本列島からそらしてしまえばいい そのころには魚を獲るのにも、針で釣ったり網ですくったりはしないで、音波や超音波、あるいは電波、電流、原子爆発という物理的漁業が盛んになっている 飛行機、汽船、汽車、自動車。そんな交通機関はみんな原子力で動くから、とても速く、型も大きくなり、数も増し、世界中の物資は余った所から足らない所へすぐに廻されるし、人も自由に簡単に旅行出来て、地球が、一つの家みたいになる 山林も畑も学校も町もある文化施設の整った大船が、太平洋に浮かんで、原子力で好きな所へ移って行く 町や村の近くの山の中に原子力採取場があって、ここで大量の熱が得られ、熱伝導線を通じて工場や各家庭に送られる また原子力を利用した発電機から得た電気であらゆる部門の電化が実現し、家庭生活は能率が上がり、主婦が家事に朝から晩まで立ち働かねばならぬ現在とはすっかり様子が変わる 原子薬品の利用で難病もすみやかに治る 原子力委員会委員長を務めた藤家洋一は、2004年の講演で『原子爆弾救護報告書』の結びを「祖国は敗れた。大学は灰燼に帰した。しかし原爆の理屈(核分裂反応)はこれから使わねばいけない。この原子力のエネルギーが人類の文化の発展に貢献するようになった時、初めて原爆被害者は心の安らぎを覚えるであろう」と話し、原子力の本質を見事に捉えていると評価した。 福島第一原子力発電所事故後に福島県放射線健康リスク管理アドバイザーを務めた、長崎大学・福島県立医科大学副学長の山下俊一はその著作『放射線リスクコミュニケーション』に「原子力の問題が出たときには、昭和20年の10月に書かれた永井隆の原爆救護報告書の最後の一文を述べるようにしています(中略)原子力という科学の光、力を利用してより良い世界を作って行くべきだ、ということを彼はその当時既に書いているのです」と書き、『原子力文化』2012年1月号の作家森福都との対談では、それを「わが祖国は敗れた。すべてが灰燼に帰した。しかし、この禍を転じてわが国は原子力の平和利用によって、亡くなった方々に対し罪をあがなわなくてはいけない。その結果、わが国はきっと復興する」と言い換えている。 日本エネルギー会議発起人で工学者の澤田哲生は「原爆=原発ではない。両者を区分けするのが人間の叡智であり、それを実現するのがエンジニアリングです。そこに永井隆博士の願いがありました」と語っている。 永井は原子力の平和利用に期待をかけたが、一方で原子力より先の学問があるという考えを持っていた。 このたびの戦争で、原子学をはじめ、たくさんの進歩がありましたが、同時に世界中で死者二千二百六万、傷者三千四百四十万、財産損害三千三百億ドル。全参加国の戦費一兆一千百六十九億一千百四十六万三千八十四ドル、という損害が出ています。これだけの人の命と、お金とを平和文化の方へ使ったら、原子力よりもっと先の学問が、すでにわたくしたちの手の中に入っていたでしょう。
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