原子力研究三原則
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1949年9月にソビエト連邦が原子爆弾の開発に成功したと報道されると、仁科芳雄と荒勝文策は同年10月の総会において、原子力は平和利用に限り武器として使わないことを意図した「原子力に対する有効なる国際管理の確立要請」という声明を提案する。日本が占領されていた日本学術会議の創立時には原子力研究は禁止されていた。1951年にサンフランシスコ講和条約が締結され、翌1952年に占領状態が解かれることになると、日本学術会議の第四部会や運営審議会で原子力の平和利用研究について議論が開始される。 1952年10月の第13回総会には茅誠司と伏見康治による「茅・伏見提案」が提出されるが、これは被爆者である広島大学の三村剛昂らの大反対に会う。三村の主張は米ソ対立が解けて世界中が平和利用に使うことが確定するまでは原子力研究を控えるべきというもので、研究者間のコンセンサスが取れないまま政府へ提言することは控えるべきという意見が多かった。茅・伏見提案は取り下げられるものの、これを契機に日本学術会議内に原子力問題に対応するための「三九委員会」が設けられる。また、原子核特別委員会でも議論が進められた。 1953年、渡米時にアイゼンハワー大統領の原子力政策を知った中曽根康弘は、日本の原子力について嵯峨根遼吉に助言を乞い、帰国後に原子力予算を検討する。改進党ら3党により提案された原子力予算は日本学術会議に衝撃を与える。このとき、中曽根が「学術会議が原子力について何も動こうとしないから、科学者の横っ面を札束でなぐってやった」と語ったという逸話があるが、中曽根によると抗議に赴いた茅誠司に対して稲葉修が放った言葉だという。その後、伏見は「原子力憲章」草案も起草する。なお、この間の1954年3月にビキニ環礁の水爆実験によって第五福竜丸が被爆したことが明らかとなっている。 1954年4月に「原子力研究と利用に関し公開、民主、自主の原則を要求する声明」(原子力研究三原則)がまとめられる。なお、「原子力研究三原則」は「原子力三原則」や「原子力平和利用3原則」、「学術会議の原子力三原則」とも呼ばれ。藤本陽一によると「公開、民主、自主」の原型は武谷三男の1951年『改造』の論文にあるといい、提言にあたっては向坊隆や藤岡由夫も貢献したという。この三原則は、1955年の原子力基本法に反映されている。
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