原子力研究三原則とは? わかりやすく解説

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原子力研究三原則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:56 UTC 版)

日本学術会議」の記事における「原子力研究三原則」の解説

1949年9月ソビエト連邦原子爆弾の開発成功した報道されると、仁科芳雄荒勝文策同年10月総会において、原子力は平和利用に限り武器として使わないことを意図した原子力対す有効な国際管理確立要請」という声明提案する日本占領されていた日本学術会議創立時には原子力研究禁止されていた。1951年サンフランシスコ講和条約締結され、翌1952年占領状態が解かれることになると、日本学術会議第四部会や運営審議会原子力の平和利用研究について議論開始される1952年10月第13回総会には茅誠司伏見康治による「伏見提案」が提出されるが、これは被爆者である広島大学三村剛昂らの大反対に会う。三村主張米ソ対立解けて世界中が平和利用に使うことが確定するまでは原子力研究控えるべきというもので、研究者間のコンセンサス取れないまま政府提言することは控えるべきという意見多かった伏見提案取り下げられるものの、これを契機日本学術会議内に原子力問題対応するための「三九委員会」が設けられるまた、原子核特別委員会でも議論進められた。 1953年渡米時にアイゼンハワー大統領原子力政策知った中曽根康弘は、日本原子力について嵯峨根遼吉助言乞い帰国後に原子力予算検討する改進党ら3党により提案され原子力予算日本学術会議衝撃与える。このとき、中曽根が「学術会議原子力について何も動こうとしないから、科学者横っ面札束なぐってやった」と語ったという逸話があるが、中曽根によると抗議赴いた茅誠司に対して稲葉修放った言葉だという。その後伏見は「原子力憲章草案起草する。なお、この間1954年3月ビキニ環礁水爆実験によって第五福竜丸被爆したことが明らかとなっている。 1954年4月に「原子力研究と利用関し公開民主自主原則要求する声明」(原子力研究三原則)がまとめられる。なお、「原子力研究三原則」は「原子力三原則」や「原子力和利用3原則」、「学術会議原子力三原則」とも呼ばれ藤本一によると「公開民主自主」の原型武谷三男1951年改造』の論文にあるといい、提言にあたって向坊隆藤岡由夫貢献したという。この三原則は、1955年原子力基本法反映されている。

※この「原子力研究三原則」の解説は、「日本学術会議」の解説の一部です。
「原子力研究三原則」を含む「日本学術会議」の記事については、「日本学術会議」の概要を参照ください。

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