原子力発電課の始動
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「東京電力初の原子炉に沸騰水型が採用された経緯」の記事における「原子力発電課の始動」の解説
この頃、1955年8月にジュネーヴで「第一回ジュネーブ会議」が開催され、当時の原子力先進各国が膨大な研究成果を披露した。この会議では、BWRの原型となるアルゴンヌ国立研究所のEBWRの他、PWRやGCRも紹介されたが、それにも増して重要だったのは、各種の炉物理、核設計のデータが公開されたことだった。上述のように、当時若手技術者3名で他社より若干遅れてスタートした東電社長室原子力発電課にもこの会議などで入手・翻訳した資料が山のように積まれ、その精読が始まっていたという。1955年年末になると電気事業連合会は原子力発電連絡会議を設け、東京電力もこの集まりを通じて各社と調査・研究の連絡体制を取った。 3人の若手技術社員は各々で研究分野の分担を決め、政策、経済性、安全性、設計、計画、放射線遮蔽、計装制御、廃棄物などに区分して研究を進めた。初期には下記の3冊 『原子核工学』(マーレイ,Raymond L.Murray) 『原子力ハンドブック』(グラストン,Samuel Glasstone) 『原子炉の理論』(グラストン、エドランド,Samuel Glasstone,M.C.Edlund) を原著や独自訳を使用しながら輪読したという。社報には1954年4月に初めて原子力発電の話題が掲載され、1956年1月より「原子力発電ABC」の連載が始まり、社員一般への啓蒙も始められた。 上記のように一部の機密開示で東京電力を含む日本の原子力発電への知見は高まった。なお、原子力発電課が発足して間もない頃、当時の社長高井亮太郎は欧米の原子力発電開発を視察したが、その結論は安全性や技術的に紆余曲折が予想されるので慎重に事を進めなければならないといったもので、「カゴに乗って走る」と喩えたという。しかし、正力松太郎等が英国炉の日本導入に躍起となったことで、日本国内には第一次原子力ブームが訪れ、先のような慎重さとは正反対の態度であったという。また1957年5月15日の日米合同原子力産業会議総会の挨拶にて、高井亮太郎は、「現在の見通しのもとにすすめると」1965年までに東京電力として千数百名の技術要員が必要であり、その教育のために、米英に機密事項の解除を要請している。
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