北方海域での戦い
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「霞 (朝潮型駆逐艦)」の記事における「北方海域での戦い」の解説
呉に戻った第18駆逐隊(霞、霰、陽炎、不知火)は、北方方面に展開する第五艦隊(旗艦:重巡那智)の指揮下に入った。6月23日、大本営はミッドウェー作戦の陽動で占領に成功したアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島の維持を命じ、同隊は日本から兵員や武器を輸送する船団の護衛任務に就いた。28日、霞、霰、不知火の3隻が、横須賀から水上機母艦千代田と輸送船あるぜんちな丸を護衛し、キスカ島に向かった。東京湾で23日に駆逐艦山風がアメリカ潜水艦ノーチラスに撃沈されたため、別の輸送船を護衛する予定の陽炎が東京湾で掃討作戦に従事した。 7月5日未明、千代田とあるぜんちな丸はキスカ島キスカ湾に入港した。第18駆逐隊の3隻はキスカ島沖で濃霧のため仮泊中、アメリカ潜水艦グロウラーの襲撃を受けた。霞は一番砲塔前の下部に被雷し、大破した。霰は沈没、不知火も大破した。 日本海軍は14日附で宮坂司令の任を解いた。霞と不知火は、空襲で沈没した特設運送船日産丸の残骸に隠れて応急修理を行った。19日に陽炎が菊川丸を護衛してキスカに到着。20日、行動不能の霞と不知火は第五艦隊附属となり、陽炎は南方作戦の第15駆逐隊に編入された。駆逐艦長波が救難資材と工員を乗せて27日にキスカ島に到着した。霞は26日から曳航実験を行って曳航可能と判断され、27日午後、駆逐艦雷の曳航と陽炎の護衛で、キスカ島を出発した。悪天候のため霞の曳航は難航し、雷の燃料がひっ迫したが、8月3日に幌筵島に到着した。5日、曳航艦が駆逐艦電に代わって幌筵を出発、9日に石狩湾に入港した。10日、タンカー富士山丸に曳航されて石狩湾を発ち、13日に舞鶴に到着した。舞鶴海軍工廠で修理に着手した。 15日、第18駆逐隊は解隊。霞と不知火は呉鎮守府予備艦となり、31日に特別役務駆逐艦に指定された。9月3日、不知火が舞鶴に到着した。10月15日、霞と不知火は第四予備艦に指定された。不知火より修理が早く進んだ霞は1943年(昭和18年)5月20日に第一予備駆逐艦になり、6月30日に修理が完了した。同日、新造艦の訓練・練成を主任務とする第十一水雷戦隊に編入された。 修理中に重油タンク加熱装置を積んだ霞は、第十一水雷戦隊への合流に先立ち装置の実験のため舞鶴工廠の関係者を乗せて7月4-12日の間、樺太・敷香まで往復する航海実験を行った。実験を完了して18日に舞鶴を出発、内海西部で第十一水雷戦隊の各艦と合流し、以降は訓練を行った。25-26日、戦艦大和の電探公試に協力した。29日に電探射撃訓練に曳的艦として協力したが、途中で曳索が切れた。8月、瀬戸内海で訓練に従事。16日、第五艦隊・第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将)の第9駆逐隊に霞が編入することが内示された。17日、大和など主力部隊が呉からトラック泊地へ出撃し 、霞と第十一水雷戦隊の早波、涼波、藤波の駆逐艦4隻が途中まで護衛した。20日、霞は駆逐艦響、早波、涼波、藤波と対空訓練を実施したのち、呉に回航された。 9月1日、霞は第9駆逐隊(朝雲、薄雲、白雲、司令・井上良雄大佐)に正式に編入され、再び第五艦隊の一員として北方海域で活動することになった。2日に呉を出発。那智を護衛して6日に幌筵島に到着した。その後は北千島列島方面で、船団護衛に従事した。 10月29日、第9駆逐隊の司令駆逐艦になった。31日、朝雲は第10駆逐隊に編入された。アメリカ軍が11月21日に中部太平洋のギルバート諸島に上陸を開始したことを受け、霞は11月下旬から一時的に内南洋部隊の指揮下に入り、横須賀を経由してマーシャル諸島のルオット島へ緊急輸送を行った。12月15日にトラック泊地に到着し、ラバウル空襲で損傷した最上を護衛して内地に帰投した。南洋任務を終えた霞は22日に舞鶴に戻り、電探の装備や対空機銃の増設工事を行った。1944年(昭和19年)1月18日、霞は整備・修理を終えて舞鶴を出撃し、北方方面での船団護衛任務に復帰した。 3月1日、不知火が第9駆逐隊に編入されたが、南方海域で護衛任務等に当たっていた。3月15日、第9駆逐隊の霞と白雲、薄雲は輸送船4隻を護衛して小樽を出港し、釧路港を経て千島に向かった。16日、釧路沖でアメリカ潜水艦トートグに襲撃され白雲と日連丸が撃沈された。霞は周辺海域の対潜哨戒を行ったが、成果はなかった。31日に第9駆逐隊は解隊され、薄雲と霞、不知火の3隻で第18駆逐隊を編制、引き続き井上大佐が司令となった。 6月中旬、マリアナ方面の戦いが始まり、第五艦隊各艦は横須賀への入港を命じられ、霞は護衛任務を中止して24日までに横須賀に到着した。サイパン島への海上突入作戦が計画され、霞なども参加を予定したが、マリアナ沖海戦に敗れるなどして作戦が中止となった。6月27日、霞と不知火は東京湾と青ヶ島の間の対潜哨戒任務に就き、その後は那智、重巡足柄を護衛して大湊に向かった。再び北方での護衛任務に戻ったが、7月7日、小樽から北千島へ向かう船団を護衛中に米潜水艦スケートの攻撃を受け、薄雲が沈没した。8月に硫黄島、父島への輸送任務に当たり、以降は南方での作戦に備えて内海で訓練を行った。
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