元日本軍兵士の証言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:43 UTC 版)
「バターン死の行進」の記事における「元日本軍兵士の証言」の解説
以下は、主にこの事件に係る日本側反論に関する旧日本軍の軍人の証言である。 吉本隆明は、フィリピンにいた元日本軍兵士の証言として以下の発言を紹介し、「それだけ、軍隊における常識も、アメリカと日本では違っていたということ」と評している。 日本軍は捕虜たちを残酷に扱ったと言われているけど、自分たちにはそんな自覚はちっともなかった。だって、炎天下であろうがなかろうが、日本軍にとっては一日10キロも20キロも歩くのは当たり前。いつも通りのことをやったら、捕虜たちがバタバタ倒れてしまっただけだ。 第2次バターン攻略戦に参加した元日本軍兵士の次のような証言がある。 (前略)夜が明けてみると、前方の山から白旗を掲げたアメリカ兵がゾロゾロと出てくるではないか。第四分隊、こちらは総勢一三人、敵のアメリカ兵は何百、何千と雲霞のように山から下りてくる。まずこの光景を見て我々は腰を抜かさんばかりに驚いた。武装解除されているので武器は所持していなかったが、キャラメルやタバコをくれたり、チョコレートをくれたり、我々のご機嫌を取ってくる。(中略)一人の日本兵が三〇〇人近いアメリカ兵を引率しているのである。後ろからブスッとやられたらそれきりである。気味の悪いこと、この上なしである。もしこれが日本兵とアメリカ兵の立場が逆になっていたら、一三人くらいの敵ならアッと言う間に殺していたであろう。(後略) 第65旅団歩兵第百四十一聯隊長(階級は大佐)として、バターン死の行進に従軍した今井武夫は次のように、当時の日本軍の状況について証言し反論している。 バターン半島の戦闘に終始したわが夏兵団は、新たに中部ルソン島の戡定作戦のため、再び北方に反転することとなったが、四ヵ月に及ぶ密林の露営生活は、食糧の補給難と相俟って、将兵の体力を全く消耗し尽くしていた。その上不幸な事には、敵陣地を占領した途端に、皮肉にも敗走した米比軍が今まで悩んでいた悪性のマラリヤやデング熱の病菌に汚染した地域を通過するため、日本軍に伝染し、まるで敗退軍の復讐かのように重症患者が続出し、大半の将兵が罹病したが、新任務は一日の猶予も許さず、休養の暇もなかった。われわれは再び四十度の炎天を冒し、南部サンフェルナンドまで、舗装道路を徒歩で六十数粁(キロメートル)行軍せねばならなかった。窮余の一策として毎日午前二時に宿営地を出発し、二十粁の行程を遅くも午前十時頃までに、目的地に到着するよう、行軍計画を立てたが、落伍兵を激励しながら行軍するのは、全く容易でなかった。然るにわれわれと前後しながら、同じ道路を北方へ、バターンで降伏した数万の米軍捕虜が、単に着のみ着のままの軽装で、飯盒と水筒の炊事必需品だけをブラ下げて、数名の日本軍兵士に引率され、えんえんと行軍していた。士気が崩れ、節制を失っていた捕虜群は、疲れれば直ちに路傍に横たわり、争って樹陰と水を求めて飯盒炊事を始める等、その自堕落振りは目に余るものがあった。しかし背嚢を背に、小銃を肩にして、二十瓩(キログラム)の完全武装に近いわれわれから見れば、彼等の軽装と自儘な行動を、心中密かに羨む気持ちすらないとは言えなかった。戦後、米軍から、「バターン死の行進」と聞かされ、私も横浜軍事裁判所に連日召喚されて、この時の行軍の実状を調査されたが、初めはテッキリ他方面の行軍と間違えているものと考え、まさかこの行軍を指すものとは、夢想だにしなかった。米軍は戦時中国民の敵愾心を昂揚するため、政略的に「死の行進」を宣伝し、戦闘で疲労した将兵に自動車を提供せず、徒歩行軍を強制したのは、全く日本軍の残酷性に基づく非人道行為の如く罵声を放ったものである。明かに日本軍の当時の実情に目を掩って、曲解したものと言わねばならない。しかも彼等が撒いた宣伝の結果は、無理にも刈り取ることが、政策的に必要とされた。その上比島の捕虜は、ルソン島中部のオードネル捕虜収容所に収容されてから、バターンの戦闘間流行した熱帯病或いは食糧不足のため生じた栄養失調で、病死者が多発した事も米軍が誤解する原因となったかもしれない。
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