伝統の継承と社会との関わり
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「川端道喜」の記事における「伝統の継承と社会との関わり」の解説
戦後、川端道喜はすぐに営業を再開することは出来なかった。原因は物不足であった。砂糖の入手が困難な中、合成甘味料を使った和菓子が横行していた。 戦後の混乱期、十四代道喜は、菓子材料の入手困難にかこつけて粗悪な和菓子が横行している事態を嘆き、「極端な利潤追求の観念から離れて、親切な製品を作りだすこと」、そして「京洛の真(まこと)の味を伝え、その心を味わう都人があって欲しい」と訴え、「伝統の味、歴史の味、日本的感覚のまことを守る店が、たとえ少なくとも京都だけには片隅には存在することを」心から願うとした。 昭和24年(1949年)5月、京都名物として広く認知されていて、一流の信用がある食べ物関連の店の集まりとして「百味會」が京都商工会議所で発足した。十四代道喜は百味會の発足に尽力し、会の活動を通じて、京名物と呼ばれる、生活の潤いであり楽しみでもある京都伝統の暖簾を保存していくことを願い、百味會は「売らんかな」の商業主義の団体では断じて無いと主張した。 十四代川端道喜は昭和25年(1950年)1月10日に亡くなった。十四代道喜は京都二商在学時は雄弁で鳴らし、全国的にその存在が知られているほどであった。京都二商卒業後は青年民政党を設立し、区会議員から市会議員と政治の道を歩むようになった。また京都市の実業青年団と生菓子工業組合の理事長として実業界でも活躍した。また前述のような京菓子の伝統を守るための活動とともに、多くの随筆、評論を執筆し、「開化」という文芸研究の雑誌を出版したことがあるなど、文化人としても高い教養を持っていた。 子の十五代道喜によれば、十四代は尾崎秀実や中野正剛との親交があり、ゾルゲ事件発覚後、治安維持法で検挙されてその後も特高による執拗な尾行を受け続けたため、近衛文麿に頼み込んで大政翼賛会の役職に就けてもらったという。恩師に当たる藤田徳松によれば、昭和16年(1941年)4月に京都市会議員を辞職し、翌昭和17年(1942年)6月には民主主義的思想を忌避されて大政翼賛会、翼賛壮年団の役職辞任を強要されたという。 十五代道喜の時代になって、昭和40年代にこれまでの京都御所蛤御門前の店から、上賀茂神社近くへと移転した。江戸時代以前からの蛤御門前の店を畳んで上賀茂へと移転した理由は、新規事業の旅館業が上手く行かなくなったためだった。先祖伝来の家屋を失う中で、関係者たちは改めて九代道喜がまとめた起請文の精神に立ち返って、ちまきなどの和菓子を作っていく決意を固めた。 その後、京都市街地の水質悪化から美味しい水を求めて、昭和61年(1986年)末に大原へと移転する。しかし移転後、普段の大原の水は良質であるが、大雨になると濁りが生じてしまうことがわかった。京都市側と話し合ってみても解決策が見つからず、その上、大原の近くの滋賀県側にごみ焼却施設が出来るとの話が持ち上がったため、すぐに京都市街地の北山に戻って来ることになった。 十五代川端道喜は昭和63年(1988年)には戸籍上の名前も川端道喜と改名した。十五代は多くの文化人との交流でも知られ、京都を代表する文化人の一人とされ、著書の「和菓子の京都」はベストセラーとなった。また社会運動、政治活動にも熱心であり、京都の街並みを守る活動を行っていた「21京を創る懇話会代表世話人」として活躍し、平成元年(1989年)の京都市長選では木村万平陣営の選挙事務長を務めた。十五代川端道喜は平成2年(1990年)夏、加藤周一との対談で「50年先、100年先に誇れる京都を残せ」と訴えたが、この対談が公的な最後の仕事となり、平成2年(1990年)7月29日に亡くなった。 平成11年(1999年)の年末、十六代川端道喜は体調を崩しながらも妻の知嘉子に菱葩餅の製法を伝授した。その後十六代は平成12年(2000年)4月3日に亡くなった。夫の死後は知嘉子が中心となって家業を守っている。また知嘉子は画家としても活動している。 なお、昭和58年(1983年)6月1日、永正9年(1512年)の室町幕府奉公人連署奉書から明治時代に至る川端道喜所蔵の文章100点は、貴重な歴史史料として京都市の文化財に登録された。
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