人による探査と利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 07:29 UTC 版)
ハワイ語でモクパパパ(Mokupāpapa)という語は元々「岩礁を伴う平らな島」という意味で用いられていた。北西ハワイ諸島はハワイ神話に登場するカーネ・ミロハイ(英語版)と関係している。島を作ったとされるペレの兄弟が旅行者を守るために残された。19世紀半ばまで、クレ環礁にいくつかの船が訪れており、その度に異なる名前がつけられていた。Cureともつづられるこの英語名はこの環礁を見たロシアの探検家が名づけたものである。1924年、公式にクレ島と名付けられ、1987年になってクレ環礁と変更された。 周囲の岩礁で座礁した船の乗組員が大勢クレ環礁に取り残され、彼らは周囲にいたアシカ、カメ、トリを食べて生き抜く必要があった。現在でも、岩礁にはUSSサギノー号(1859)(英語版)などの難破船が残されている。これらの事故を受け、ハワイ国王のカラカウアはジェームス・ハーボトル・ボイド(英語版)大佐を特別長官として派遣した。そして1886年9月20日、彼はハワイ政府によるこの島の領有を宣言した。王は島に取り残された遭難者のために、水タンクと食料を備えた簡素な家の建設を命じた。しかし食料は1年もしないうちに奪われ、家はすぐに廃墟と化した 歴史上ほとんど無視されてきたが、第二次世界大戦中は米国海軍がミッドウェーより度々訪れ、巡回していた。これは日本軍がハワイ諸島の別場所を攻撃する目的で、潜水艦や潜水タンカーから放たれた飛行艇の補給にこの島を利用していることがないかを確かめるためであった。 1942年(昭和17年)5月下旬から6月上旬にかけてのミッドウェー作戦では、ミッドウェー島と同じく、日本軍の攻略目標となった(日本側はキューア島と呼称)。6月4日、第十一航空戦隊司令官藤田頼太郎少将指揮下の航空隊(水上機母艦千歳、特設水上機母艦神川丸、駆逐艦早潮、哨戒艇第三十五号、海軍陸戦隊1個小隊)はミッドウェー島占領部隊(輸送船団)と分離、クレ環礁に向かった。6月5日、日本海軍は米軍機動部隊艦載機の空襲を受け、主力空母4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)を撃沈される。ミッドウェー・アリューシャン作戦一時延期の決定および退避命令により、航空部隊はクレ環礁占領を断念し、反転した。同日、空母飛龍からミッドウェー島爆撃のため発艦した飛龍航空隊(指揮官友永丈市大尉、零式艦上戦闘機9機、中島製九七式艦上攻撃機18機)のうち、菊池六郎大尉(第二中隊長)が地上からの対空砲火(もしくは米軍機による攻撃)を受けてクレ環礁付近に不時着した。この機は米国のミッドウェー軍事施設破壊を目的とした日本軍による初期の攻撃に関与している。日本側の認識では、菊池大尉以下3名はキューア島(クレ環礁)附近の海面に不時着して戦死した事になっている。だが3名は生存していた。菊池中隊長と他2名の乗組員(飛行兵曹長の湯本智美、一等飛行兵曹の樽崎広典)は上陸したが、アメリカ上陸部隊が彼らを捕らえようとした時、彼らは捕虜となることを拒否して殺されたかまたは自決した。 クレ環礁は太平洋ゴミベルトからがれきを運び出す主な海流の中に位置していて、漁業用の網や大量のライターなどが島内に漂着している。これが島内の動物、中でも鳥に対する脅威となっていて、胃にプラスチックが入った鳥の死骸がよく見られる。 1998年10月16日、遠洋漁業船のパラダイス・クイーン IIがクレ環礁Green島の東端で座礁し、回復措置が取られるまでに約4,000ガロンのディーゼル燃料が流出した。難破船の破片が長年にわたって岩礁や海岸を汚染し続けており、野生生物を危機にさらしサンゴ礁を傷つけている。北西ハワイ諸島に生息する環境に敏感な生物がこの長期に渡る汚染によって危機にさらされている。 より確実に生物を保護するため、国際海事機関は国立パパハナウモクアケア海洋遺跡(Papahānaumokuākea Marine National Monument)を特別敏感海域(Papahānaumokuākea Marine National Monument、PSSA)に指定した。さらにその地域への出入りを避けるため、特定敏感海域から10海里以内に設定した要報告区域に船が出入りする際、船主はそのことを報告することになっている。これは海難事故に素早く対応できるようにするためである。 1960年から1992年まで、アメリカ沿岸警備隊LORAN局がGreen島に設置されていた。海岸警備活動のため島内にはサンゴでできた短い滑走路が建設されたが、廃棄され現在は使えない。定住者はいないが、以前はホノルル郡の一部であった。1981年には州立野生生物保護区となった。1993年より、ハワイ州土地自然資源局(英語版)とクレ環礁管理局からのボランティアが、より自然な状態に復旧する手伝いをしている。ジャン・ミッシェル・クストゥ(英語版)がクレ環礁への航海映像を制作し、2006年に初めて放送された。2010年から、森林野生生物課が通年でクレ環礁に駐在するようになった。
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