京王帝都電鉄へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:31 UTC 版)
第二次世界大戦も終結し、京王線と井の頭線は、京王帝都電鉄株式会社の下で営業されることとなる。東京急行電鉄が、新たに新設した子会社・京王帝都電鉄に、事業と資産の一部を譲渡する分離方式が採られた。京王帝都電鉄は、分離の翌期に株式市場に上場して、金融機関などの他の株主資本が入ることで独立を果たした。 元来、京王電気軌道も、帝都電鉄も鬼怒川水力電気の利光鶴松が企図した事業であったが、その後の沿革が異なる両線が同一会社となったのは、京王線がまだ路面電車当時の設備のままで脆弱であったこと、また戦前の京王電気軌道のもう一つの主力であった配電事業が失われたこと、東都乗合自動車(現・国際興業バス)や藤沢自動車(現・神奈川中央交通)、中野乗合自動車(現・関東バス)などのバス会社や観光事業であった京王閣などの有力系列会社が傘下から離れていったことに起因する。 京王線は、京急線や小田急線とは違い、高速鉄道化が遅れ、車両や鉄道用地の規格が小さく、戦災による被災車両が発生しても、他線からの車両の融通や、新製車両の配備も行われなかった。また東急本社も、車両、線路、設備の改良や新規の投資も行う余裕がなく、京王線は東急合併のメリットを享受できなかった。いわば、戦前の経営を支えた付帯事業を失い、戦災被害を受けたままの鉄道事業のみで自立しなければならない現状であった。そのため、京王線のみの分離では戦前の京王電気軌道よりも経営基盤が弱くなり、独立が危ぶまれていたのである。 実際に井の頭線を路線に加えるように推進したのは、当時の東急京王支社長の職にあった井上定雄(後の京王帝都電鉄社長)であり、五島慶太はむしろこの案にためらったと言われる。京王線と井の頭線は沿線が重複し、合体することで強固な経営基盤が築け、また井上は帝都電鉄出身であったため、自分の案なら古巣の井の頭線の連中も十分説得できると自信を持っていたとされる。井の頭線は駅の過半数が京王線以北にあることから、多くの沿線住民にとって京王の管轄の方が便利でもあった。 東急からの譲受価格は総額5115万2800円で、前述の事情から、鉄道事業の補填のため、東京横浜電鉄が戦前経営していた京王線以北の乗合バス路線も京王帝都電鉄が譲り受けた。このほか、初代社長に東急(目黒蒲田電鉄)生え抜きの三宮四郎が就任したこともあり(なお、新生小田急の初代社長は旧小田急出身の安藤楢六、京急初代社長は京浜電鉄出身の井田正一だった)、京王電気軌道の復活と言うよりは、新たな合併私鉄が誕生した趣きで再出発を期した。 当初の経営状況は不安定であった。1948年度は現在の「大手私鉄」の中でも収益は最下位で、1949年の『会社四季報』にも、「(東急系)四社の中で一番劣る」「前途は芳しくない」「労資関係も良くない」「発展性は薄い」などと酷評される有り様であった。戦災復旧、設備の改良など、巨額の投資を余儀なくされた一方、国鉄下河原線の払い下げ出願(実現せず)、競馬場線の建設計画のほか、収支改善のために、バス事業など付帯事業の強化を推進し、1955年(昭和30年)の高尾自動車株式会社の買収を始めとしたバス事業に本腰を入れる様になると共に、1956年(昭和31年)の京王百花苑(現・京王フローラルガーデンANGE)の開園や1959年(昭和34年)の京王食品株式会社(現・京王ストア)、1961年(昭和36年)の京王百貨店の設立など、沿線価値を上げる事業も開始した。 また、1960年代には、新宿地下駅の営業開始など、軌道線イメージからの脱却にも力を入れた。またレジャー輸送を主にする競馬場線・動物園線・高尾線を開通させたほか、1970年代には多摩ニュータウンへのアクセス路線として相模原線を開業。1980年には東京都交通局(都営地下鉄)新宿線との相互直通乗り入れを開始するなど、発展の道を歩んだ。 なお、1960年頃にはこの他にも数多くの路線を建設しようとしており、立川線(富士見ヶ丘駅 - 西国立駅)、三鷹線(富士見ヶ丘駅 - 三鷹駅)、両国線(新宿駅 - 神楽坂駅 - 飯田橋駅 - 九段下駅 - 東京駅 - 日本橋駅 - 浜町駅 - 両国駅)の3路線(路線名称は、いずれも計画時の仮称)を計画したが、いずれも実現しなかった。 1980年代にはそれほど健全な財務内容ではなかったが、第6代社長に京王帝都電鉄総合職1期生の桑山健一が就任し、経営の引き締めにつとめ、平成不況の過程で同業他社が不動産価格下落・流通不振・旅行低迷などに見舞われるのを尻目に、財務体質は強固なものに変わっていった。桑山は、京王帝都電鉄設立以来、会社のたゆまぬ経営努力にも関わらず、常に財務状況が脆弱であったことを嘆き、財務体質の強化を志しての社長就任となった。桑山は、「リフレッシング京王」をスローガンに掲げ、京王グループ全体の経営改革と付加価値向上に努めた。後継社長には、財務のプロである住友信託銀行の西山廣一常務を招聘し、桑山の意を受けた西山は在任中、経営改革を成し遂げた。
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