京王帝都電鉄の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:01 UTC 版)
「京王バス中野営業所」の記事における「京王帝都電鉄の成立」の解説
京王帝都電鉄の成立時から1950年代前半にかけて、急速に路線網が拡大した。「中野駅 - 渋谷駅線」「中野駅 - 市ヶ谷駅 - 新橋駅線」「中野駅 - 代田二丁目線」「新宿伊勢丹 - 堀ノ内二丁目線」などが開通し、前述の練馬線も新宿への乗り入れを行うようになった。こうした運行増加に対応するため、1953年に新宿営業所(営業所記号はF)が初台駅近く(現:東京オペラシティ)に新設され、一部路線が移管された。1950年代後半に入ると市街化が郊外にも及ぶようになり、中野区北部や練馬区における人口増加が顕著となった。これを受け、練馬線における中野駅折返し便の新設、「中野駅 - 新井薬師前駅 - 哲学堂下 - 豊島園線」の開通など、この地域での運行強化が図られ、1963年には新たな営業拠点として練馬区中村南1-22に練馬営業所(営業所記号はH)が開設された。 しかし、1960年代半ば頃を境に自動車交通量の増加や交通規制の影響により、バスは円滑な運行が困難となり、6号通り筋や沼袋駅周辺などの狭隘路線では大幅な経路変更を行われた。全体的なバスの輸送量も減少に転じ始め、路線の廃止による合理化も進められた。こうした流れの中で、新宿営業所が1967年に乗合バスの担当から外れ、練馬営業所も開設から12年を経た1975年に閉所となり、最盛期には3営業所が分担した路線は再び中野営業所に集約された。
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