二十一か条の要求とワシントン体制
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「日中関係史」の記事における「二十一か条の要求とワシントン体制」の解説
1911年、中国大陸では三民主義を唱える孫文らによる辛亥革命が起こり、宣統帝が退位し、翌年の1912年には中華民国の臨時政府が南京で成立した。中華民国暦が採用されることになり、中華民国憲法発布に伴って宣統帝を総理として支えた袁世凱が孫文から大総統の地位を与えられると、首都が北京に移り、結局帝政が復活することになる。その頃になると上海・広州・天津・漢口などの都市が発展し、東亜同文会が東亜同文書院などを開設するなどした。「近代文明」を受容する目的で多くの中国人が日本へ留学するようになると、孫文と宮崎滔天、頭山満・魯迅と藤野厳九郎の交流などが生まれた。しかし、帰国した魯迅の影響を受けた胡適らによってブルジョワ文学革命が起こり、パトリオティズムが高揚しつつあった。 1915年、大隈内閣は山東半島におけるドイツ帝国の利権を継承することなどを盛り込んだ二十一か条の要求を袁世凱に提示した。この要求と引き換えに袁世凱は日本による中華帝国の承認を求めたとされている。これを契機として、反袁勢力が立ち上がり、1902年に結ばれた日英同盟を理由に連合国側に立ってドイツ帝国に宣戦布告していた日本を排撃する傾向が次第に生まれていく。そこで中華民国は連合国側に立って第一次世界大戦に参戦し、日本の影響力の排除を試みようとした。しかし、1919年に行われたパリ講和会議で決まったヴェルサイユ条約は日本の山東省のおける利権の継承を認めたため、北京の大学生らが条約調印反対運動を起こした。それが全国に波及して五・四運動といわれる反帝国主義運動に発展した。 北京政府打倒を目指していた革命家の孫文は1919年に広州で中国国民党を決起して、張作霖ら中国東北部を割拠している北洋軍閥の征伐と反帝国主義運動に取り掛かることになる。1920年、中国艦隊は尼港事件で赤軍と戦闘中の日本軍兵営を砲撃する。一方、ロシア革命により成立したソビエト連邦の傘下にあったコミンテルンの革命援助によって陳独秀らは1921年に上海で中国共産党を結成する。コミンテルンの後ろ盾もあり、1924年に国民党は第一次国共合作で共産党を迎え入れ、外資系の工場でのストライキを通して反帝国主義運動を全国へ波及させ、孫文は神戸を訪れて大アジア主義講演も行った。国民党は広東省の広州で国民政府を立ち上げて、孫文が病死するという不幸を乗り越えて、1926年に北伐を開始する。国民革命軍は蔣介石に率いられて広東省から出発し破竹の勢いで南京・上海を占拠するが、南京事件、漢口事件などにより日本人を始めとする外国領事館、居留民への攻撃が行われたため、国民党右派の蔣介石は上海クーデターを起こしてプロレタリアート的な共産党員の抑圧を図り、第一次国共合作は崩壊した。 当時の国際情勢は世界の覇権国が大英帝国から米国に変わりつつあり、米国のウッドロウ・ウィルソンが十四か条の平和原則を示して国際連盟が設立されるヴェルサイユ体制下にあった。日本は常任理事国として国際連盟に設立と同時に加盟した。1922年には米国が海軍軍縮・太平洋の平和・中国問題に関するワシントン会議を主催して、石井・ランシング協定の破棄で日本陸軍の山東省からの完全撤退や中国の門戸開放と領土保全が保障され、ここに日本の大陸侵攻を封じ込めるワシントン体制が確立した。それと連動して幣原喜重郎が対米協調外交を展開していた。日本国内では、大戦景気を背景に吉野作造が民本主義を唱えて大正デモクラシーの時期が到来、1917年のロシア革命を受けたシベリア出兵によって米騒動が起きたりもしたが、平民宰相といわれた原敬の登場で本格的な政党内閣制度が確立した。第一次世界大戦後の恐慌・関東大震災による恐慌・護憲運動を経て1925年に普通選挙法が成立したが、同時に治安維持法も制定されるという時代であった。
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