事業拡大・増改築
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「国立公園指定運動」と共に万世閣の社長としての職務にも邁進した。 1949年(昭和24年)から、それまで部分補修で凌いできた旅館の増改築、新築に本格的に取り組んだ。この頃、天皇が国民を励ます為、全国各地を訪問しており、1950年(昭和25年)に来道し、温泉地に泊るという計画が持ち上がっていた。「その折には、ぜひ万世閣に泊って頂こう。」と貴賓館の新築、各所の増改築を行った。結果的にはその年の朝鮮動乱で訪問は中止になり、天皇は4年後に来道し洞爺湖ではなく支笏湖に泊る事になる。天皇の宿泊について宮内庁と増次郎との間に確約があったわけではない。もしもの場合に備えようという増次郎の心意気を示すものだった。実際、その後、多くの皇族が訪れ、「貴賓館」を利用する事になる。 この頃「国際観光ホテル整備法」が制定された。その法律の基準を満たして政府登録ホテル・旅館施設として登録されると信用形成に繋がると共に、国の低利融資を受けられるといった特典があった。当時の登録基準は、客室には玄関があり、一定の広さが必要で、床の間、電話設備、それにベランダ付き…このような部屋が10部屋以上、かつ客室総数の半分以上といったものだった。この為、大幅な新築、増改築が施され、会議室、電話交換室、娯楽室、展望台、休憩室の増設、客室の改築を行い1953年(昭和28年)に完成。同年11月に政府登録申請を行った。結果、1954年(昭和29年)5月31日、洞爺湖温泉で初の政府登録旅館(旅第58号)として認定された。その後も「近代的で充実した旅館へ」と設備投資を続けた。目的の1つは収容能力の拡大、そして施設や設備を機能的、かつ効率的に配置しなおす事だった。 増次郎の長男、豊も戦地から復員し、後継者として万世閣の改築に参画。改修プランを練るために豊を伊豆、伊東、熱海、さらに和歌山などを廻り旅館やホテルを視察させた。大浴場、大広間、中広間、フロントのカウンタースタイル、応接間、売店、ロビー形式と今までの和風旅館形式からホテルの要素を取り入れた洋風スタイルへ向け、様々な改修工事を施し続けた。1949年(昭和29年)から続いた改修工事は1957年(昭和32年)5月までに全体の敷地は7062m2、延べ面積6722m2となり建物は木造・鉄筋コンクリート3階建て、総客室62室と規模を拡大していった。 同時期に学生の集学旅行用の宿泊施設として「第二万世閣ユーカラ荘」を新築。延べ面積1113.3m2、3階建、総客室29室を経営し、「北湯沢観光ホテル」を1950年(昭和25年)に買収し1952年(昭和27年)11月から増改築を施し総客室17室として11月30日に完成し1956年(昭和34年)6月に売却するまで経営した。 また洞爺湖と周辺の美しい大自然を満喫させる為に、1953年(昭和28年)、「洞爺湖遊覧船株式会社」を設立、大株主として取締役会長に就任した。 洞爺湖遊覧船株式会社は1954年(昭和29年)、総工費1100万円を掛けて28t、110人乗りの遊覧船「クィーン号」を就航させた。これが戦後の遊覧専用豪華船の第一号で当時は「みずうみの女王」と呼ばれ大いにもてはやされた。その後、64t、210人乗りの「ヴィナス号」も就航させ、1957年(昭和35年)には同業他社の遊覧船と合わせ、年間30万人の乗客を数える程、活況を呈した。同社はその後、運営面で形を替え現在に至っているが、洞爺湖遊覧は相変わらず観光客の人気の的であり、この点でも増次郎は洞爺湖観光において大きな遺産を残している。 陸上輸送による観光振興にも早い時期から目を向けていた増次郎は1941年(昭和26年)に大株主として札幌市のハイヤー会社・大和交通の取締役社長に就任し現在の観光タクシーにつながった。
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