事業拡大と兼営事業
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長野電灯の電灯取付数は1917年(大正6年)上期に5万を超え、その4年半後の1921年(大正10年)下期には10万灯に到達した。この1921年下期には動力用電力供給も1000馬力を超えている。その間、佐久支社管内では1919年(大正8年)3月に出力450 kWの八那池第二発電所が、翌1920年(大正10年)6月には出力1,600 kWの茂沢発電所がそれぞれ運転を開始しており、発電力は計2,860 kWに拡大した。八那池第二発電所は八那池第一発電所の放水による発電所で同所と同じ北牧村にあり、茂沢発電所は信濃川水系湯川の発電所で北佐久郡伍賀村大字茂沢(現・軽井沢町)に位置する。一方で長野市その他の本社管内の発電力は茂菅・芋井両発電所計670 kWのままで変化がない(別途信濃電気から1,000 kW受電)。 1910年代の電灯供給拡大に関しては、白熱電球のうち発光部分(「フィラメント」という)に金属線を用いる金属線電球の普及もみられた。金属線電球は発光部分に炭素線を用いる旧来の炭素線電球に比べて著しく高効率・長寿命の電球であり、タングステン電球(発光部分にタングステン線を用いる電球)の場合には炭素線電球に比して約3分の1の消費電力で済むという特徴を持つ。長野電灯における金属線電球の利用は、逓信省の資料によると1912年時点では常時灯全体の5パーセントを占めるに過ぎなかったが、1921年末時点では点灯中の炭素線電球は皆無になっている。 1910年代半ばの大戦景気期には自社の電力を活用した化学工業事業にも参入した。1916年(大正5年)に佐久地域の岩村田町に工場を建設し、炭化カルシウム(カーバイド)の製造を開始したのである。カーバイド製造は信濃電気がすでに1906年から手掛けていた事業であるが、大戦期のころには豊水期の発電量増加で生ずる不定時電力(特殊電力とも)の消化手段として北陸地方を中心に起業が相次いでいた。しかし長野電灯は大戦終結後のカーバイド市況悪化の波を超えられず、1919年には工場閉鎖を余儀なくされた。これに対し信濃電気は1920年代に入ってもカーバイド事業を存続させ、1926年(大正15年)には大手石灰窒素メーカーの日本窒素肥料との提携により信越窒素肥料(後の信越化学工業)を設立することになる。 カーバイド事業と異なり長野電灯の直営ではないが、経営陣が長野市における都市ガス事業にも関わった。長野市のガス会社長野瓦斯(長野ガス、1945年東京ガスに合併)が設立されたのは1912年9月5日のことである。設立時の代表取締役は長野の中沢与左衛門。また福澤桃介率いるガス事業投資会社日本瓦斯(1910年設立)で技師長を務める原専造と支配人を務める高木得三が役員に名を連ねる。長野瓦斯は石堂町にガス工場を設けて1913年1月よりガス供給を開始したが、まもなく役員に異動があり、同年9月に原・高木らが役員を辞任し、その後花岡・諏訪部ら長野電灯関係者が役員に補選された。1915年の役員録をみると、長野瓦斯の役員は7名のうち取締役・監査役各1名を除いて長野電灯の取締役・支配人に置き換わっている。1918年2月に長野電灯が新社屋を長野市西町571番地に新築し若松町から移転すると、同系会社として長野瓦斯も同じ社屋に入った。 1910年代を通じて長野電灯は2度の増資を実施した。1度目は佐久・伊那両支社設置前の1911年7月に決議されたもので、増資額は37万5000円。2度目は1916年1月に決議されており、増資額は60万円である。これらの増資で資本金を120万円へと拡大し、さらに1920年6月に130万円の増資を決議して、250万円としている。
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