ローレンス・ポメロイとボクスホールの最盛期
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「ボクスホール」の記事における「ローレンス・ポメロイとボクスホールの最盛期」の解説
1907年、24歳の技術者ローレンス・ポメロイ(Laurence Henry Pomeroy 1883 - 1941年)が、製図工補という低い職階でボクスホールに入社した。 その年ボクスホールでは、王立自動車クラブ(RAC)が翌年に開催する競技会、「2000マイル・スコティッシュ・トライアル」への参加を計画し、新型車の開発を目論んだ。ところが主任技術者のホッジスは休暇でエジプトへの長期旅行中であり、急遽代わりの開発者が必要になった。 これを知り、元々自動車開発に強い関心を持ちエンジン技術の独学を重ねてもいたポメロイは、「自分に開発を任せてもらえれば、(30hp足らずだった3リッターの)従来型エンジンを上回る40hpを出してみせる」と社の上層部に申し出た。するとホッジスの不在に苦慮していた重役陣は(常識では考えがたい起用であったが)、過去に特別な実績もなかった新入社員の大胆な自薦を受け入れた。 ポメロイが突貫作業で設計した3リッター直列4気筒エンジンは、サイドバルブ方式だが吸排気効率の向上を考慮しており、高回転にも耐えられるように、クランクベアリングを各ピストン間全てに備えた高剛性の5ベアリング仕様であった(この周到な基本仕様が、排気量変更やシリンダーヘッド変更などによる、約20年に渡ってのエンジン改良を可能とした)。更に、圧縮比は異常燃焼を起こさないぎりぎりのレベルまで上げられた。ポメロイは当時からいち早く高圧縮比エンジンの優位性を確信しており、異常燃焼リスクは誘因となる過熱の頻度を考慮すれば問題にはならないと割り切ったのである。果たしてこのエンジンは完成後最初のベンチテストで、実際に同排気量の従来型に比し、大幅に強力な38hpの出力を発生した。 ポメロイの4気筒を搭載した新型車Aタイプ「20h.p.」(車名は当時の英国での課税基準20hp級に属することによる)は、1908年6月の「スコティッシュ・トライアル」にパーシー・キドナー(Percy Crosbie Kidner のちボクスホールの経営幹部)の搭乗により参加した。スコットランドでの悪路のトライアルとブルックランズ・サーキットでの高速レースを共にこなす過酷な競技であったが、前年優勝車で倍以上の7L車ロールス・ロイス・シルヴァーゴーストを2位に下してトラブル皆無での総合優勝を獲得した。その後、1910年には60hpまで強化されて流線型ボディを載せたレコードブレーカー仕様が速度テストで、当時の3リッター級車では例のなかった100マイル/h(約160km/h)を突破するなど、Aタイプはメーカーの名を上げる非常な成功を収めた。ポメロイはこの実績によって大抜擢され、1912年から1919年の退社までチーフエンジニアを務めることになる。 以後ポメロイが手がけた車輛の多くは20h.p.の改良発展型で、1910年のCタイプ「プリンス・ヘンリー」(3 - 4リッター)、1912年のDタイプ25h.p.(4リッター)、1913年のEタイプ「30/98」(4.5リッター、のちOHVヘッド化後4.2リッター)などが該当する。これらは何れも20h.p.の4気筒エンジンを強化・拡大して搭載しており、パワーに対してメインのリア・ドラムブレーキのキャパシティに難があったことを除けば、当時のイギリス製中型車で最良レベルの自動車であった。 「プリンス・ヘンリー」と「30/98」はレース出場を念頭に設計されたスポーティモデルで、強力なエンジン(例えば30/98は初期形でも90hpを発生し、この時代では異例のハイパワーであった)と、当時としては優れたコーナリング性能によって、1910年代 - 1920年代のレースやヒルクライムで膨大な回数の勝利を収め、名声を高めた。 「プリンス・ヘンリー」は1910年、ドイツで開催された「プリンツ・ハインリヒ・トライアル」で好成績を収めた記念にその名(プリンツ・ハインリヒの英語表記)で呼ばれるようになったモデルである。「30/98」は、プリンス・ヘンリーの大排気量化によって急造された特注車が出自で、改良を受けながら1927年までの長期に渡って生産され(しかしその総生産台数は586台に過ぎない)、エドワーディアン期(エドワード朝時代・1910年前後)からヴィンテージ期(1920年代)における屈指の傑作スポーツカーとして、後世に至るまで高く評価されている。その最終形は最高出力120hpを発生し、最高速度はノーマルで85マイル/h以上、レーシング仕様では100マイル/hに達したと言われる。 またロングホイールベースのツーリングカーであるDタイプのうち、第一次世界大戦中に生産された1,998台はイギリス陸軍省に納入され、軍用のスタッフカーとして西部戦線をはじめ、バルカン半島や中近東に至る各地の戦場で指揮官車・連絡業務等に用いられ、その信頼性を実証することになった。第一次大戦で軍用に用いられた乗用車では名車ロールス・ロイス・シルヴァーゴーストが著名であるが、イギリスの軍用乗用車の主力はボクスホールであった。1916年8月、イギリス国王ジョージ5世がソンムの戦いの最中に戦場を巡察した際には、臨時の御料車としてフランドルの泥濘地を踏み越え、1917年12月には、オスマン帝国軍を破ったイギリス陸軍のアレンビー将軍を乗せてエルサレム市街に入城し、1918年の第一次大戦終戦直後には、ライン川を渡ってドイツ領内に踏み入った最初の戦勝国側車両となった。
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