ローレンスポメロイとボクスホールの最盛期とは? わかりやすく解説

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ローレンス・ポメロイとボクスホールの最盛期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 01:28 UTC 版)

ボクスホール」の記事における「ローレンス・ポメロイとボクスホールの最盛期」の解説

1907年24歳技術者ローレンス・ポメロイ(Laurence Henry Pomeroy 1883 - 1941年)が、製図工補という低い職階ボクスホール入社した。 その年ボクスホールでは、王立自動車クラブRAC)が翌年開催する競技会、「2000マイル・スコティッシュ・トライアル」への参加計画し新型車の開発目論んだ。ところが主任技術者ホッジス休暇エジプトへの長期旅行中であり、急遽代わり開発者必要になった。 これを知り、元々自動車開発強い関心持ちエンジン技術独学重ねてもいたポメロイは、「自分開発任せてもらえれば、(30hp足らずだった3リッターの)従来型エンジン上回る40hpを出してみせる」と社の上層部に申し出た。するとホッジス不在苦慮していた重役陣は(常識では考えがたい起用であったが)、過去特別な実績もなかった新入社員大胆な自薦受け入れた。 ポメロイが突貫作業設計した3リッター直列4気筒エンジンは、サイドバルブ方式だが吸排気効率の向上考慮しており、高回転にも耐えられるように、クランクベアリングを各ピストン全て備えた剛性5ベアリング仕様であった(この周到な基本仕様が、排気量変更シリンダーヘッド変更などによる、約20年渡ってエンジン改良を可能とした)。更に、圧縮比異常燃焼起こさないぎりぎりレベルまで上げられた。ポメロイは当時からいち早く高圧縮比エンジン優位性確信しており、異常燃焼リスク誘因となる過熱頻度考慮すれば問題にはならない割り切ったのである果たしてこのエンジン完成最初ベンチテストで、実際に排気量従来型比し大幅に強力な38hpの出力発生した。 ポメロイの4気筒搭載した新型Aタイプ「20h.p.」(車名当時英国での課税基準20hp級に属すことによる)は、1908年6月の「スコティッシュ・トライアル」にパーシー・キドナー(Percy Crosbie Kidner のちボクスホール経営幹部)の搭乗により参加したスコットランドでの悪路トライアルブルックランズ・サーキットでの高速レースを共にこなす過酷な競技であったが、前年優勝車で倍以上の7L車ロールス・ロイス・シルヴァーゴースト2位下してトラブル皆無での総合優勝獲得したその後1910年には60hpまで強化され流線型ボディ載せたレコードブレーカー仕様速度テストで、当時の3リッター車で例のなかった100マイル/h(約160km/h)を突破するなど、Aタイプメーカー名を上げる常な成功収めた。ポメロイはこの実績によって大抜擢され、1912年から1919年退社までチーフエンジニアを務めることになる。 以後ポメロイが手がけた車輛多くは20h.p.の改良発展型で、1910年Cタイププリンス・ヘンリー」(3 - 4リッター)、1912年Dタイプ25h.p.(4リッター)、1913年Eタイプ「30/98」(4.5リッター、のちOHVヘッド化後4.2リッター)などが該当する。これらは何れも20h.p.の4気筒エンジン強化拡大して搭載しており、パワーに対してメインのリア・ドラムブレーキのキャパシティに難があったことを除けば当時イギリス中型車最良レベル自動車であった。 「プリンス・ヘンリー」と「30/98」はレース出場念頭に設計されたスポーティモデルで、強力なエンジン例えば30/98は初期形でも90hpを発生し、この時代では異例ハイパワーであった)と、当時としては優れたコーナリング性能によって、1910年代 - 1920年代レースヒルクライム膨大な回数勝利を収め名声高めた。 「プリンス・ヘンリー」は1910年ドイツ開催された「プリンツ・ハインリヒ・トライアル」で好成績収めた記念にその名(プリンツ・ハインリヒ英語表記)で呼ばれるようになったモデルである。「30/98」は、プリンス・ヘンリー大排気量化によって急造された特注車が出自で、改良を受けながら1927年までの長期渡って生産され(しかしその総生産台数は586台に過ぎない)、エドワーディアン期(エドワード朝時代1910年前後)からヴィンテージ期(1920年代)における屈指の傑作スポーツカーとして、後世に至るまで高く評価されている。その最終形最高出力120hpを発生し最高速度ノーマル85マイル/h以上、レーシング仕様では100マイル/hに達したと言われる。 またロングホイールベースツーリングカーであるDタイプのうち、第一次世界大戦中生産された1,998台はイギリス陸軍省に納入され軍用スタッフカーとして西部戦線をはじめ、バルカン半島中近東に至る各地戦場指揮官車・連業務等に用いられ、その信頼性実証することになった第一次大戦軍用用いられ乗用車では名車ロールス・ロイス・シルヴァーゴースト著名であるが、イギリス軍用乗用車主力ボクスホールであった1916年8月イギリス国王ジョージ5世ソンムの戦い最中戦場巡察した際には、臨時御料車としてフランドル泥濘地を踏み越え1917年12月には、オスマン帝国軍破ったイギリス陸軍のアレンビー将軍乗せてエルサレム市街入城し1918年第一次大戦終戦直後には、ライン川渡ってドイツ領内踏み入った最初戦勝国側車となった

※この「ローレンス・ポメロイとボクスホールの最盛期」の解説は、「ボクスホール」の解説の一部です。
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