ロータリーエンジンの量産化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:23 UTC 版)
「マツダ」の記事における「ロータリーエンジンの量産化」の解説
「ロータリーエンジン#マツダのロータリーエンジン」も参照 1960年(昭和35年)から3年間にわたり、東洋工業は自動車生産台数で国内首位となっていたが、その多くは三輪トラックと軽乗用車だったため経営基盤は弱く、企業規模や収益性といった点でトヨタや日産に大きな差をつけられていた。また、当時の通商産業省は、近い将来の貿易自由化に備えて国際競争力を強化するために、国内自動車メーカーを「量産車(普通乗用車)」、「特殊乗用車(高級車)」、「ミニカー(軽自動車)」の3グループに統合させるとする「3グループ構想」を抱いており、東洋工業はミニカーグループの代表的なメーカーと見られていた。社長の松田恒次は、総合自動車メーカーを目指しているにもかかわらず東洋工業がミニカー専業会社とされ、その上合併を強いられて経営権を失うなど論外だと考えていた。 こうした状況の中、社の独立を保ちたいと思案していた松田恒次は、1960年(昭和35年)の元旦にドイツ人の友人から、西ドイツのNSU社とフェリクス・ヴァンケル博士が率いるヴァンケル社が共同開発したロータリーエンジン(RE)についてのレポートと雑誌記事が同封された手紙を受け取り、1日も早く技術提携を結ぶよう勧められた。REが自動車業界再編を乗り切るための切り札になると確信した松田恒次は、社内の反対の声を無視して技術提携を進めることを決断。松田恒次には、REの技術力によって企業イメージの向上が図れることや、RE開発の名目で銀行からの融資が受けやすくなり、その資金で通商産業省主導の再編を乗り切るための研究開発や設備投資を強化できるといった考えがあった。 NSUには世界各国の約100社から技術提携の申し込みが殺到していたが、駐日西ドイツ大使らの仲介によって、1960年(昭和35年)7月に交渉の約束を取り付けることに成功した。同年9月末、松田恒次一行はメインバンクである住友銀行頭取の堀田庄三の斡旋により手に入れた、吉田茂元首相から西ドイツのアデナウアー首相に宛てた紹介状を携えてNSUへと向かい、当時としては破格の2億8,000万円の特許料を払って技術導入を決めた。 技術提携に関する政府認可がおりた1961年(昭和36年)7月、技術研修団がNSUに派遣され、そこで一定時間の稼動後にエンジン内壁面に発生する「チャターマーク」と呼ばれる摩耗が量産化を妨げる大きな原因であることを知らされた。帰国後に「ロータリーエンジン開発委員会」が設置され、NSUから届いた設計図を元に試作エンジンを完成させたが、契約前には明かされなかった様々な問題が発生し、実用には程遠いものだった。1963年(昭和38年)4月、開発強化のため、「ロータリーエンジン開発委員会」を昇格させた「ロータリーエンジン研究部」を設置。山本健一(後に6代目社長)を部長に総勢47名で発足し、翌年には3億円の総工費をかけた専用の研究室が用意された。山本をはじめとする開発陣は日本カーボンと共同でカーボンを浸潤させたアペックスシールを開発するなどして耐久性の確保に成功。1967年(昭和42年)5月、特許購入から6年の歳月と40億円以上とも言われる巨額をかけたプロジェクトは、RE搭載車のコスモスポーツの発売という形で結実した。 REの圧倒的な動力性能と流麗かつ未来的なデザインを兼ね備えたコスモスポーツはイメージリーダーとして絶大な役割を果たし、それまでの「バタンコ屋」と呼ばれた垢抜けないイメージが「ロータリーのマツダ」という最先端のイメージに取って代わった。企業イメージ向上は販売増にも結びつき、1966年(昭和41年)からの2年間で四輪車の生産台数は19%も増加。コスモスポーツに続いて、ファミリアロータリークーペやルーチェロータリークーペなどREを搭載したモデルを発売し、1970年(昭和45年)にはファミリアロータリークーペなどの対米輸出を開始して念願だったアメリカ市場へと進出した。
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