ロータリーエンジンを導入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/22 04:37 UTC 版)
「マツダ再建」の記事における「ロータリーエンジンを導入」の解説
1960年に日本政府は「貿易為替自由化計画大綱」を策定し、国際競争力の高まった産業から順次輸入を自由化する方針を示した。輸入自由化の後には、資本自由化も控え、自動車メーカー各社は自社競争力の強化に取り組んだ。そのような中、単独での生き残りが厳しいメーカーは合併・提携へと動き、1966年8月、ブリヂストン傘下のプリンス自動車工業は日産自動車と合併した。また同年10月には日野自動車とトヨタ自動車が業務提携を発表するなど、この後開放経済を前提とした業界再編が続き、最終的に身の振り方が定まらない中堅メーカーは本田技研工業(ホンダ)と東洋工業(マツダ)の2社となった。 1961年、松田耕平が東洋工業副社長に就任する。そして父の松田恒次社長が東洋工業の飛躍の切り札とし、西独の自動車メーカーであるNSUから当時としては破格の2億8千万円の特許料を支払い技術導入したロータリーエンジン(RE)の責任者に、耕平が文系出身ながらおさまった。1963年には社内にRE研究部を設置し、初代研究部長には山本健一(のち同社社長)が登用された。 1967年5月、REを搭載したコスモスポーツの販売が開始される。高性能と静寂性を兼ね備えたREは”夢のエンジン”と脚光を浴び、東洋工業の企業イメージは向上。さらに販売増にも結び付き、翌1968年の生産台数はトヨタ自動車、日産自動車に次ぐ業界3位につけた。この状況を背景に1970年1月にはフォードと資本業務提携の交渉に入るが、その最中、松田恒次が急逝。松田耕平が社長に昇格し交渉は継続された。 だが、NSUが東洋工業とフォードの資本提携は認められないと反対した上に、ニクソン・ショックも重なり交渉は頓挫。1972年3月に交渉は決裂し白紙還元に至った。 松田耕平は、東洋工業はREがある限り将来にわたり自主独立路線を貫くことが可能でトヨタ、日産を追い抜くことも夢ではないと思慮していた。またREは、窒素酸化物(NOx)の排出も少なく、米国で実施されていた排ガス規制が日本においても実施されることが決定していた。当時、排ガス規制を達成する技術にメドをつけたのはREの実用化に成功した東洋工業と独自にCVCC(複合渦流調整燃焼方式)を開発したホンダの2社しかなく、トヨタ、日産は無論のことゼネラルモーターズ、クライスラー、フォードの全米ビッグスリーも技術開発にあたっては手探りの状態であった。そうした折に耕平は、今がまさに好機でREの量産体制に入らなければならないとし、1971年春には大規模な設備増強に着手。設備資金、開発研究費に合わせて600億円を投じ、本社工場に隣接する宇品地区に新工場の建設へ向け踏み出した。その後もRE車はよく売れ、中でも対米輸出が好調で、1973年には米国向け輸出車は、11万台に達しその内、7〜8割をRE車が占めていた。 しかしREを量産化するにあたっての技術が未熟で確立されておらず、特定の部品が予想以上に摩耗するため早急に取り換えなければならない事態となった。整備点検にあたるマツダの国内販売店は網羅的に整備されていたが、米国における販売店網は盤石な状態ではなかった。その対応策を講じていた1973年10月、第四次中東戦争が勃発し、第1次オイルショックに見舞われた。これを受け同業他社はいち早く減産体制を敷いたが、東洋工業はオイルショックによるモノ不足は一時的なもので、平時に帰せば車の購入は活発になる。そのために作りだめしなければならないとして大幅な増産体制を敷いた。 ところが1974年に米国環境保護庁(EPA)がRE車が普通のエンジンより20〜50%も燃料を食う燃費の悪い車であるとの調査結果を発表した。これが喧伝されると世間の関心が省エネルギーに向かっていたことから、売り行きはピタリと止み、国内外とも在庫は大幅に積み上がった。これによって1974年10月期決算では173億円の赤字を計上する事態となった。
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