リョウトウとは? わかりやすく解説

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遼東Liao dong

リョウトウ
レウトウ

領城11
戸数64,158
人口81,714

太守蔡風 / 公孫度

単于蘇僕延

【郡人】

【領城】襄平 / 新昌 / 無慮 / 望平 / 候城 / 安市 / 平郭 / 西安平 / 汶(文) / 番汗 / 沓氏


淩統Ling Tong

リョウトウ

189217
漢偏将軍・沛相・都亭侯

字は公績呉郡余杭の人。

淩操孫策に従って破賊校尉となっていたが、建安八年二〇三)、孫権江夏征討従軍して先鋒軽舟打ち破り、ただ一人突き進んでいるうちに流れ矢当たって戦死した。淩統は十五歳であったが、(孫権の)左右の者たちの多く褒め称え孫権もまた淩操国事死んだことを思い、淩統を別部司馬任じ、行破賊都尉として父の軍勢仕切らせた。

のちに山賊攻撃従軍したが、孫権が保の屯所打ち破って一足先に引き揚げたとき、麻の屯所には一万人が残っていた。淩統は督の張異らとともに攻囲残り日にち定めて攻撃することにした。期日先立ち、淩統は督の陳勤と酒を呑むことになった。陳勤は剛勇気まま性質であり、酒宴主人役を務めたのだが、一座面々虚仮にしたばかりか、罰杯やり方も道を外したのだった。淩統はその傲慢ぶりに嫌悪感覚え面と向かって批判し言いなりにならなかった。陳勤は腹を立てて淩統や父淩操罵倒し、淩統は涙を流しながら黙り込んだ。それを見て人々帰っていった。

陳勤は酔った勢いで凶悪になり、路上でも淩統を侮辱し続けた。淩統は堪忍袋の緒切れて刀を抜いて陳勤を切った。陳勤は(その傷のせいで)数日後死んでしまった。

屯所攻撃すべき日になると、淩統は「死ぬ以外に罪を償うすべはない」と言って士卒励まし身をもって矢石飛び込んだ。(淩統が)攻撃をかけた一角即座に崩壊し諸将勝利乗じて屯所大破した帰還したとき軍正に自首したが、孫権はその剛毅果断壮快思い手柄立てて罪を贖うことができるようにした。

のちに孫権が再び江夏征討したとき、淩統は先鋒となり、可愛がっている勇者たち数十とともに一艘の船に乗った。ずっと大軍から数十里も離れたまま航行し右江に入ると、黄祖の将張碩を斬って水兵ことごとく川に落とした。(本隊に)戻って孫権報告したあと、手勢率いて全速進航したので、(淩統と孫権の)水陸両軍一斉に集結した。このとき呂蒙が敵水軍打ち破り、さらに淩統が率先して敵城叩いたので、大勝利収めることができたのである

孫権は淩統を承烈都尉任じ周瑜とともにで曹公(曹操)を迎えて打ち破らせ、そのまま曹仁攻撃させて、校尉昇進させた。(淩統は)軍中にあって賢者士人親しく接し財貨軽んじて義理重んじ国士風格漂わせていた。

また皖城攻略に従軍して盪寇中郎将拝命沛国の相となった呂蒙とともに西進して(長沙零陵桂陽の)三郡を攻略し益陽から引き揚げると(その足で合肥着陣、右部督となった。この戦いで孫権軍撤退することになり、先発隊が出たあと、魏将張遼らが渡し場北岸へと急襲をかけてきた。孫権先発隊を呼び戻そうとしたが、彼らはすでに遠くまで行っていて間に合いそうになかった。淩統は側近三百人を率いて包囲突破孫権守護しつつ脱出した

(しかし)はすでに敵兵によって破壊され二枚の板で繋がっているだけだった孫権は馬に鞭打って強行し、淩統はまた引き返して戦った左右の者たちはみな死んで、彼自身傷付いていた。数十人ばかり殺しつつ、孫権落ち延びる頃合い見計らって、ようやく引き返す崩壊して道がなかったので、淩統は具足身に付けたまま(水中を)潜って行った孫権は船の上から彼の姿を見付けて驚喜した。

淩統は側近たちが帰ってこないのを痛惜し、悲しみのあまり立つことさえできなかった。孫権は袖で(彼の涙を)拭いながら「公績よ、死者帰ってこないよ。卿(あなた)さえ健在であれば、ここにおらぬ人を思うことはない」と慰めた。淩統の怪我深く孫権は淩統を船に置いて衣服をすっかり替えてやった。卓氏の良薬怪我効きおかげで死なずにすんだのである。偏将軍任じ以前二倍にあたる兵士支給した

ときに、同郡の盛暹という人を孫権推薦する者がいて、大いなる節義持った梗概の士であり、淩統以上の者であると主張した孫権は「淩統と同等であれば充分だと言った後日、盛暹がお召し受けて夜中到着したとき、淩統はもう横になっていたところだったが、報告聞くと、着物抱えて門まで出迎えその手引いて中へ通した。彼が善士を愛して悪意を持たなかった様子は、このようなのだった

孫権言葉には、淩統ほど傑出した人物そうそういない、ましてやそれ以上の者などいるはずがない、という思い込められている。

淩統は、山中には勇壮精悍な人々がまだ多く威厳恩恵によって誘い入れるべきだと言上した。孫権東方占拠して一応の攻撃加えさせた上で、およそ淩統が要求するものがあれば、すべて先に供出して報告後回しにせよ、と属城に命令下した

淩統は日ごろから士人愛し士人もまた彼を慕った精鋭一万余り手に入れても(威勢を嵩にかけることなく)、本県を通行するときには(馬から下りて徒歩役所の門へ入り長吏拝謁するときも三枚の版(名刺)を携えうやうやしく礼儀尽くした知人旧交を温めるときも、恩情以前にも増して篤くなった。用事済ませて出発しようとした矢先、突然病気かかって卒去した。時に四十九歳。

建康実録』に建安二十二年、偏将軍・都亭侯淩統が二十九歳卒去したとあり、『三国志』本伝とは一致しない。陳景雲は言う。建安八年十五歳だったのだから、淩統は中平六年(一八九)生まれである。淩統の死後駱統がその軍勢引き継いだのは夷陵戦役以前なのだから、淩統は三十歳には達していなかっただろう。享年二十九歳とするのが正しい《集解》。

孫権報告を受けると牀に手をついて体を起こしたが、哀しみ抑えることができず、数日間食膳減らし彼のことが話題になれば涙を流した張承命じて銘誄を作らせた。

参照黄祖 / 周瑜 / 盛暹 / 曹仁 / 曹操 / 孫権 / 孫策 / 卓氏 / 張異 / 張承 / 張碩 / 張遼 / 陳勤 / 呂蒙 / 淩操 / 右江 / 烏 / 益陽県 / 合肥県 / 晥県(皖県) / 魏 / 桂陽郡 / 呉郡 / 江夏郡 / 逍遥津(渡し場) / 長沙郡 / 沛国 / 保屯 / 麻屯 / 余杭県 / 零陵郡 / 右部督 / 軍正 / 校尉 / 相 / 承烈都尉 / 長吏 / 盪寇中郎将 / 督 / 破賊校尉 / 破賊都尉 / 別部司馬 / 偏将軍 / 行 / 銘誄



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