メジャーリーガー時代
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「ブルース・スーター」の記事における「メジャーリーガー時代」の解説
1976年5月にカブスに昇格しメジャーデビュー。当時まだ一般的でなかったスプリットフィンガー・ファストボール(SFF)を駆使し、抑えとして活躍。1979年自身初のセーブ王に輝き、サイ・ヤング賞を受賞。1980年オフにセントルイス・カージナルスへトレードされ、1982年ワールドシリーズ第7戦を締めくくり、カージナルス15年ぶりの世界一に貢献した。1984年にはフリーエージェントを行使して、当時のレートで「4年契約24億円」という、当時としては破格の契約でアトランタ・ブレーブスへ移籍したが、SFFのリスクともいえる肩の故障を招いて以後、成績は下降、1988年に35歳で引退した。
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メジャーリーガー時代(1953年 - 1974年)
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「アル・ケーライン」の記事における「メジャーリーガー時代(1953年 - 1974年)」の解説
1953年にケーラインは高校を卒業し、デトロイト・タイガースと契約。この時の契約金が35,000ドル (現在のレートでは334,459ドル)だったため、当時メジャーリーグベースボールに適用されていたボーナス・ルールが適用され、同年6月25日タイガースに合流してメジャーデビューを果たし、同年は30試合に出場した。また、背番号も新人時代は「25」をつけていたが、その翌年より「6」をつけることになる。 1955年、20歳のケーラインは152試合に出場、同年のオールスターゲームにも初出場し、この後1967年まで連続出場する。そして、シーズン終了時のケーラインは打率.340・27本塁打・102打点・200安打の成績を挙げ、メジャーリーグ史上最年少の首位打者となり、これがケーライン唯一の打撃タイトルである。メジャー史上最年少首位打者は、チームの大先輩タイ・カッブとわずか1日差であった。また、MVP投票でも同年受賞したヨギ・ベラに次ぐ2位投票数を獲得した。 翌1956年も前年の勢いで打率.314・27本塁打・128打点をマークするほか、守備でも18補殺を記録した。1957年、新たに創設されたゴールドグラブ賞を初受賞し、さらに1958年にも23補殺をマークする。 1961年、打率.324をマークし、同年首位打者になったチームメイトのノーム・キャッシュ(.361)に次ぐ打率だった。 1962年は開幕から35試合までに打率.345・13本塁打・38打点を挙げたところの同年5月26日、ニューヨーク・ヤンキース戦の試合中に鎖骨を骨折して、この後57試合欠場という長期離脱を余儀なくされた。それでも、復帰後はシーズン終了までに100試合出場して29本塁打・94打点を挙げており、同年のシーズンオフは日米野球に参加(タイガース単独チーム)して来日している。 1963年は打率.312・27本塁打・101打点を挙げ、MVP投票でも受賞したエルストン・ハワードに次ぐ得票数を挙げた。 1964年、幼少期より患った左足の骨髄炎から来る痛みに、このシーズンは終始悩まされる。そのため、シーズン終了後に左足の整形手術を受けることになる。この年以降は怪我との戦いが多く、1967年夏にバットのラックに手をぶつけて骨折、翌1968年は腕を骨折して2か月も戦線離脱を余儀なくされた。しかし、残されたチームメイトらの奮起やメイヨ・スミス監督の適切な起用もあり、チームはアメリカン・リーグ優勝を果たし、ワールドシリーズに出場することになる。セントルイス・カージナルスを相手に迎えたシリーズでのケーラインは29打数11安打・打率.379・2本塁打・8打点を挙げ、チームを1945年以来となるワールドシリーズ制覇に貢献した。 1971年、年俸更改でケーラインはタイガースの選手として初の100,000ドル (現在のレートで631,306ドル)をチームより提示されるが、自身はこれを固辞し、95,000ドルから100,000ドルの間を希望する。これには前年の1970年シーズンの打率.278・21本塁打しか挙げていなかったことが一因だったという。 1974年は前年より導入された指名打者としてすごし、同年9月24日、故郷ボルチモアでのボルチモア・オリオールズ戦にてデーブ・マクナリーから二塁打を放って通算3,000本安打を達成。達成後に、今シーズン限りの現役引退を表明する。その後最終戦となる10月2日までに通算3,007安打をマークして現役を引退した。 ケーラインの残した記録のうち、2,834試合出場・1,277四球・399本塁打はタイガースの球団記録で、とくに本塁打はあと1本で400本塁打となっただけに惜しまれた。また、通算3,007安打も、タイ・カッブの球団記録(3,902安打)に次ぐ第2位と、堂々たる記録である。
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メジャーリーガー時代
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「ジム・バニング」の記事における「メジャーリーガー時代」の解説
1950年、デトロイト・タイガースと契約。1964年から1967年までフィラデルフィア・フィリーズ、1968年から1969年途中までピッツバーグ・パイレーツ、その後ロサンゼルス・ドジャースに所属。1970年にフィリーズに復帰したが、1971年シーズン後引退した。 1955年7月20日にメジャーデビュー。1957年には20勝8敗で最多勝のタイトルを獲得。1958年7月20日のボストン・レッドソックス戦でノーヒットノーランを達成、1964年6月21日のニューヨーク・メッツ戦では史上7人目、ナショナルリーグでは初の完全試合を達成した。両リーグでノーヒットノーランを達成したのはサイ・ヤングに次いで史上2人目である。また、両リーグで1000奪三振を達成したのはバニングが最初である(現在はノーラン・ライアンなどもこの記録を達成している)。 1959年8月2日のボストン・レッドソックス戦では、9回表にメジャー史上10人目の3者連続3球三振を記録している。 1996年にベテランズ委員会推薦で野球殿堂入りを果たした(殿堂のプレートは現役時代に最も活躍したフィリーズの帽子を被っている)。 2001年、バニングのフィリーズ在籍時の背番号『14』が永久欠番に指定された。
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