ミネソタ・ツインズ時代(2010年 - 2011年)
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「ジム・トーミ」の記事における「ミネソタ・ツインズ時代(2010年 - 2011年)」の解説
2010年1月にミネソタ・ツインズと年俸150万ドル(約1億3000万円)で移籍。この契約は近年のトーミの成績を考えても破格の安さだが、打席数に応じて最大750万ドルの出来高払いがあるという。 このシーズンは休養を挟みながら108試合の出場にとどまったが、わずか276打数で25本塁打を記録する活躍でチームの地区優勝に貢献した。 2011年1月には引き続きツインズと年俸300万ドルで1年契約。前年同様打席に応じたボーナスがある。8月15日のデトロイト・タイガース戦で史上8人目の通算600本塁打を達成。
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ミネソタ・ツインズ時代(1961年 - 1974年)
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「ハーモン・キルブルー」の記事における「ミネソタ・ツインズ時代(1961年 - 1974年)」の解説
1961年、新生・ツインズとしての初年度、キルブルーはチームキャプテンとして任命され、同年は打率.288、46本塁打、122打点を記録し、また自己最多の7本の三塁打も打った。また、同年7月4日に自身のキャリア唯一のランニング本塁打を放ったが、これは新本拠地メトロポリタン・スタジアム初のランニング本塁打だった。 1962年、大腿の筋肉を傷めたこともあり、このシーズンより左翼手としてプレイすることになるが、同年は4月、6月は大スランプで、打率2割を下回るほどだった。このため、このシーズンのみMLBオールスターゲームに選出されなかったという。しかし、同年6月18日のクリーブランド・インディアンス戦で満塁本塁打を打ったことから復調し、終わってみれば48本塁打、126打点を記録し、2度目のアメリカンリーグ本塁打王と初のアメリカンリーグ打点王の二冠を獲得した。その一方で106四球も記録し、前述の大スランプのために打率は.243と自己最低の記録となり、リーグ最多の142三振も喫した。 1963年シーズンは4月半ばに膝を故障し、回復が遅れたことでひと月近く戦線を離脱するが、復帰後はチーム6連勝にも貢献する。9月21日のボストン・レッドソックス戦では自身初の1試合3本塁打を放ち、このシーズンでは打率.258、45本塁打、96打点を記録し、3度目のアメリカンリーグ本塁打王を獲得。シーズン後に4月に痛めた膝を手術した。 1964年、キルブルーは膝の手術明けもあり、左翼から再び内野にコンバートされる。同年は打率.270、49本塁打、111打点を記録し、2年連続4度目の本塁打王に輝く。 1965年、キルブルーはホームのメトロポリタン・スタジアムで行われた同年のオールスターゲームに出場し、違う3ポジションで出場した初の選手となり、試合でも2点本塁打を放った。8月2日、ボルチモア・オリオールズ戦で守備中に肘を脱臼し、9月半ばまで戦線離脱してしまう。しかし、キルブルー離脱に関わらず、残ったチームメイトの奮闘もあって、後半戦28勝19敗を挙げてツインズはアメリカンリーグ優勝を果たした。このキルブルーの1965年レギュラーシーズンは脱臼による戦線離脱のため、25本塁打、75打点にとどまった。 そしてロサンゼルス・ドジャースが相手となった同年のワールドシリーズは、キルブルー唯一のワールドシリーズ出場となる。第4戦でキルブルーはドン・ドライスデールから本塁打を放つものの、3試合で完封負けもあってシリーズはドジャースに敗れてしまった。 1966年シーズンは打率.281、39本塁打、110打点とリーグ最多の103四球だったが、MVP投票では同年ワールドシリーズを制したボルチモア・オリオールズのフランク・ロビンソン、ブルックス・ロビンソン、ブーグ・パウエルに次ぐ4位の投票数だった。 1967年6月3日、対エンゼルス戦にて、キルブルーがルー・バーデットから放った本塁打は本塁より520フィート(158.5m)の観客席に届き、メトロポリタン・スタジアム最長の本塁打となる。その落下地点になったスタンドの椅子は赤く塗られた。このシーズンでは前年のリーグチャンピオンの勢いもあったのだが、結果はボストン・レッドソックスが優勝、タイガースと2位タイに終わる。また、キルブルーは打率.269、44本塁打、113打点を記録し、本塁打数でカール・ヤストレムスキーと並ぶアメリカンリーグ本塁打王を獲得した。 1968年、キルブルーは故郷アイダホで、無関係な株の売買で勝手に自らの名前が使われたために検察に出廷、承認を務めざるを得ない事態に見舞われ、このためにこのシーズンは打率2割前後に始まり、前半戦終了時は打率.204、13本塁打となる。加えて、同年のオールスターゲームでは遊撃手のジム・フレゴシの送球が足に当たって、試合中に担架で運ばれ、しかもその怪我が現役続行に関わるほどの重傷だったため、9月に復帰は果たせたものの不本意な1年に終わる。 同シーズンオフは7ヶ月間もリハビリにあて、1969年シーズンを迎える。同年7月5日のアスレチックス戦では自身最多の1試合6打点を記録し、さらに9月7日の同アスレチックス戦では3点本塁打・満塁本塁打という離れ業で1試合7打点という固め打ちも記録した。キルブルー自身も162試合フル出場を果たし、キャリアハイの49本塁打、140打点を記録し、1962年以来の本塁打・打点の二冠王を獲得し、さらにはアメリカンリーグMVPにも輝いた。加えて、このシーズンは監督にビリー・マーチンが就任したこともあり、チームは西地区優勝を果たしている。 1970年は41本塁打、113打点を記録し、MVP投票でもチームメイトのトニー・オリバとブーグ・パウエルの2人に次ぐ3位につけていた。 1971年、キルブルーの年俸が100,000ドル(現在換算で618,652ドル)となり、セネタース・ツインズを通して史上初の10万ドルプレイヤーとなるが、この頃より衰えが見えるようになる。同年のオールスターゲームが自身最後の出場となり、オールスター明けの8月10日の試合で500号本塁打を達成。シーズンでは打率.254、28本塁打、119打点と3度目のアメリカンリーグ打点王となっている。 1972年、打率.231、26本塁打、74打点を記録するが、返球の遅れなどで、チームメイトから衰えを不安視する声があった。翌1973年はシーズンオフに足を手術したが、同年6月25日の試合でスライディングした際に足を痛めたことで、同年は69試合出場、5本塁打にとどまる。 1974年、5月5日のタイガース戦で550号本塁打を達成し、これを記念してツインズは8月に「ハーモン・キルブルー・デイ」を開催し、キルブルー引退後に自身の背番号『3』の永久欠番指定が確約される。このシーズンは打率.222、本塁打13本、54打点を記録したが、同年12月、チームよりキルブルーにコーチ就任もしくは傘下マイナーチームの監督就任、あるいはチーム放出を通告されたが、キルブルーは現役続行を選び、ツインズを退団した。
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