ポーとの関係
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「フランシス・サージェント・オズグッド」の記事における「ポーとの関係」の解説
1845年2月、エドガー・アラン・ポーがニューヨーク市で講義を行い、その中でアメリカの詩、特にヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの詩を批判した。しかし、フランシスについては特別の言及を行い、彼女には文学における「バラ色の未来」があると言った。フランシスはその講義を聞いていなかったが、友人に宛てて手紙を書き、ポーは「当時として最も厳しい批評を行っている」と言い、その褒め言葉をさらに印象的なものにした。 ポーとフランシスは1845年3月にナサニエル・パーカー・ウィリスに紹介されたときに初めて出逢ったと考えられている。このときフランシスは夫と別居していたが、離婚はしていなかった。ポーの妻バージニア・エリザ・クレムも生きていたが、健康を害していた。ポーとフランシスは共にボストンで生まれて居り、おそらくフランシスの子供のような性格がバージニアのものに似ていたために、ポーはフランシスに惹きつけられた。フランシスは既に結核の初期段階にあった可能性があり、それはバージニアと同じだった。 英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。Poe's "A Valentine" for Frances Sargent Osgood 1945年、ポーは雑誌「ブロードウェイ・ジャーナル」の3分の1所有者であり、その地位を使ってフランシスの詩を幾つか雑誌に掲載した。その中には『リバレットの夢』、『だからそのままに--』、『愛の返答』、『春』、『中傷』、『エコー・ソング』、『To--』、『難破』、『ジェラルディン嬢に』(全て1845年)など異性の気を引く詩があった。ポーも自身の詩を掲載することで応えた。その中には筆名エドガー・T・S・グレイで載せたものもあった。その中でも有名なのが、『バレンタイン』である。この詩は実際にはフランシスの名前を隠したなぞなぞであり、詩の1行目の最初の文字、2行目の2番目の文字と追っていくとフランシスという名前になった。このような感傷的な交換があったにも拘わらず、二人の関係は純粋にプラトニックなものだったと考えられることが多い。 ポーの妻バージニアは二人の関係を承認し、しばしばフランシスを彼らの家に来るよう招待した。バージニアは彼らの友情が夫に「縛り」の効果があると考えた。例えば、ポーはフランシスに印象を与えるためにアルコールを止め、またバージニアは自分が死につつあることを知っており、夫の面倒を見てくれる人を探していた可能性もある。フランシスの夫のサミュエルも反対せず、明らかに妻の衝動的な振る舞いに慣れてもいた。サミュエル自身も女たらしという評判があった。 仲間の詩人エリザベス・F・エレットはその感性をポーが軽蔑していた者だったが、ポーとフランシスの友情について噂を広め、不穏当とされるものについてバージニアに接触すらしていた。エレットはフランシスの3番目の子供であるファニー・フェイが、その夫との子ではなく、ポーとの子だと示唆すらしていた。ファニー・フェイは1846年6月に生まれたが、10月に死んだ。ポーの伝記作者ケネス・シルバーマンは、ポーがファニー・フェイの父親である可能性は、「有り得るがほとんどありそうにない」と言っている。フランシスは自分の社会的な評判を守ろうとして、マーガレット・フラーとアン・リンチをポーの所に送って、彼に送った私信を返却してもらい、破棄してくれるよう依頼した。1846年7月、フランシスの夫のサミュエルがエレットに、妻に詫びるよう要求した。名誉棄損で訴えないようにするためだった。エレットは文書で応え、その言い分を引っ込め、責める対象をポーとその妻のバージニアにした。フランシスとポーは1847年以後交際を止めた。 フランシスと文学的ないちゃつきがあったのはポーだけではなかった。数人の男が彼女に対する感情について文書にしており、その中のルーファス・ウィルモット・グリスウォルドに対しては、フランシスが詩集を献呈していた。自分の名前とグリスウォルドの名前を混ぜたバレンタインの詩も書いていた。フランシスに対するグリスウォルドとポーのさや当てはその悪名高い競争に繋がり、ポーの死後にグリスウォルドが人格攻撃をするということにまでなった。
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ポーとの関係
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「ルーファス・ウィルモット・グリスウォルド」の記事における「ポーとの関係」の解説
グリスウォルドはフィラデルフィアで「デイリー・スタンダード」のために働いていた1841年5月に、エドガー・アラン・ポーと初めて会った。その始まりから彼らの関係は、少なくとも表面上誠心誠意のものだった。1841年3月29日付の手紙で、ポーはグリスウォルドに選集『アメリカの詩人と詩』のための詩数編を送り、「1つか2つが掲載されれば」、誇りに思うことになるだろうと書いていた。グリスウォルドはそれらの中から3編を選んで掲載した。すなわち『コロシアム』、『幽霊の出る場所』、『眠る人』だった。同年11月、ポーはそれ以前に出した「自叙伝」シリーズの中でグリスウォルドを「素晴らしい趣味と健全な判断の紳士」と持ち上げていたが、グリスウォルドのためだとして選集の重要な書評を書いた。グリスウォルドはポーの書評に敬意を払い、その影響力を通じてボストンの定期刊行物に掲載させた。この書評は概して好意的なものだったが、ポーは特定の詩人たちを入れたこと、別の詩人たちを外したことを問題にしていた。ポーはグリスウォルドがニューイングランドの詩人を「不当に贔屓している」とも言っていた。グリスウォルドはそれ以上の称賛を期待していたが、ポーはその本で特に感銘を受けなかったと個人的に他者に伝えていた。ある友人への手紙で「最も悪意あるインチキ」だとまで言っていた。仲間の作家フレデリック・W・トマスに宛てた別の手紙では、グリスウォルドがこの書評を掲載させると約束したことは、実際には好意的な書評に対する賄賂であり、ポーが金を必要とすることを知っていたからだとも示唆していた。 それから僅か1か月後、二人の関係をさらに気まずくさせたのは、グリスウォルドが「グラハムのマガジン」の編集者としてジョージ・レックス・グラハムから雇われたことであり、その地位はポーが持っていたものだった。しかし、グリスウォルドはポーより高給が払われ、しかも雑誌の論調を支配できるように手配された。それから間もなく、ポーは『アメリカの詩人と詩』と題する一連の講義を行うようになり、その最初のものは1843年11月25日にフィラデルフィアで行われた。ポーは大聴衆の前で公然とグリスウォルドを攻撃し、同様な講義でも同じことを続けた。グラハムは、これらの講義の間にポーが、「十分に覚えて置かれるほどの力で、グリスウォルド氏の指関節をぴしゃりと叩いた(お仕置きをした)」と言っていた。ポーは1845年1月16日付の手紙で、グリスウォルドと和解しようとし、その講義ではグリスウォルドが不愉快に思うようなことを全て省いていると約束した。 この二人の間の敵意となったもののもう一つの原因は、1840年代半ばに詩人フランシス・サージェント・オズグッドの好意を取り合ったことだった。彼女もポーも、それぞれ別の配偶者と結婚していたが、公然といちゃつくようになり、それが文学界でゴシップの種になった。グリスウォルドもオズグッドに惚れ込んでおり、文学サロンに導き、その最も忠実な守護者となった。「彼女は私が知っている中でも最も賞賛すべき女性だ」と、出版者のジェイムズ・T・フィールズに宛てて1848年に書いていた。オズグッドはグリスウォルドに彼女の詩集を献呈することで応じ、「彼の才能に対する賞賛の土産、彼の寛大な性格に対する尊敬、貴重な文学に関する相談に対する感謝の印」としていた。
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