ポーとの関係とは? わかりやすく解説

ポーとの関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 09:44 UTC 版)

フランシス・サージェント・オズグッド」の記事における「ポーとの関係」の解説

1845年2月エドガー・アラン・ポーニューヨーク市講義行いその中でアメリカの詩、特にヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの詩を批判した。しかし、フランシスについては特別の言及行い、彼女に文学における「バラ色の未来」があると言ったフランシスはその講義聞いていなかったが、友人宛てて手紙書きポーは「当時として最も厳し批評行っている」と言い、その褒め言葉をさらに印象的なものにした。 ポーフランシス1845年3月ナサニエル・パーカー・ウィリス紹介されたときに初め出逢ったと考えられている。このときフランシスは夫と別居していたが、離婚はしていなかった。ポーの妻バージニア・エリザ・クレムも生きていたが、健康を害していた。ポーフランシスは共にボストン生まれて居り、おそらくフランシスの子のような性格バージニアのものに似ていたために、ポーフランシス惹きつけられた。フランシスは既に結核初期段階にあった可能性があり、それはバージニア同じだった英語版ウィキソースに本記事関連した原文ありますPoe's "A Valentine" for Frances Sargent Osgood 1945年ポー雑誌「ブロードウェイ・ジャーナル」の3分の1所有者であり、その地位使ってフランシスの詩を幾つか雑誌掲載した。その中には『リバレットの夢』、『だからそのままに--』、『愛の返答』、『春』、『中傷』、『エコー・ソング』、『To--』、『難破』、『ジェラルディン嬢に』(全て1845年)など異性気を引く詩があった。ポー自身の詩を掲載することで応えた。その中には筆名エドガーT・Sグレイ載せたものもあった。その中で有名なのが、『バレンタイン』である。この詩は実際にフランシスの名前を隠したなぞなぞであり、詩の1行目の最初文字、2行目の2番目の文字追っていくとフランシスという名前になった。このような感傷的な交換があったにも拘わらず二人の関係純粋にプラトニックなのだった考えられることが多い。 ポーの妻バージニア二人の関係承認し、しばしばフランシスを彼らの家に来るよう招待したバージニアは彼らの友情が夫に「縛り」の効果があると考えた例えば、ポーフランシス印象与えるためにアルコール止め、またバージニア自分死につつあることを知っており、夫の面倒を見てくれる人を探していた可能性もある。フランシスの夫のサミュエル反対せず、明らかに妻の衝動的な振る舞い慣れてもいた。サミュエル自身女たらしという評判があった。 仲間詩人エリザベス・F・エレットはその感性ポー軽蔑していた者だったが、ポーフランシス友情について噂を広め不穏当とされるものについてバージニア接触すらしていた。エレットはフランシス3番目の子供であるファニー・フェイが、その夫との子ではなくポーの子だと示唆すらしていた。ファニー・フェイは1846年6月生まれたが、10月死んだポー伝記作者ケネス・シルバーマンは、ポーがファニー・フェイの父親である可能性は、「有り得るがほとんどありそうにないと言っている。フランシス自分社会的な評判守ろうとして、マーガレット・フラーとアン・リンチをポーの所に送って彼に送った私信返却してもらい、破棄してくれるよう依頼した1846年7月フランシスの夫のサミュエルがエレットに、妻に詫びるよう要求した名誉棄損訴えないようにするためだった。エレットは文書応え、その言い分引っ込め責め対象ポーとその妻のバージニアにした。フランシスポー1847年以後交際止めたフランシス文学的ないちゃつきがあったのはポーだけではなかった。数人の男が彼女に対す感情について文書にしており、その中のルーファス・ウィルモット・グリスウォルドに対しては、フランシス詩集献呈していた。自分の名前とグリスウォルドの名前を混ぜたバレンタインの詩も書いていた。フランシス対するグリスウォルドとポーさや当てはその悪名高い競争繋がりポー死後にグリスウォルドが人格攻撃をするということにまでなった。

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ポーとの関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/09 09:29 UTC 版)

ルーファス・ウィルモット・グリスウォルド」の記事における「ポーとの関係」の解説

グリスウォルドはフィラデルフィアで「デイリー・スタンダード」のために働いていた1841年5月に、エドガー・アラン・ポー初め会ったその始まりから彼らの関係は、少なくとも表面誠心誠意のものだった1841年3月29日の手紙で、ポーはグリスウォルドに選集アメリカの詩人と詩』のための詩数編を送り、「1つ2つ掲載されれば」、誇りに思うことになるだろうと書いていた。グリスウォルドはそれらの中から3編を選んで掲載した。すなわち『コロシアム』、『幽霊の出る場所』、『眠る人』だった。同年11月ポーそれ以前出した自叙伝シリーズの中でグリスウォルドを「素晴らし趣味健全な判断紳士」と持ち上げていたが、グリスウォルドのためだとして選集重要な書評書いた。グリスウォルドはポー書評敬意払いその影響力を通じてボストン定期刊行物掲載させた。この書評概して好意的なのだったが、ポー特定の詩人たちを入れたこと、別の詩人たちを外したことを問題にしていた。ポーはグリスウォルドがニューイングランド詩人を「不当に贔屓している」とも言っていた。グリスウォルドはそれ以上称賛期待していたが、ポーその本で特に感銘を受けなかったと個人的に他者伝えていた。ある友人の手紙で「最も悪意あるインチキ」だとまで言っていた。仲間作家フレデリック・W・トマス宛てた別の手紙では、グリスウォルドがこの書評掲載させると約束したことは、実際に好意的な書評対す賄賂であり、ポーが金を必要とすることを知っていたからだとも示唆していた。 それから僅か1か月後、二人の関係をさらに気まずくさせたのは、グリスウォルドが「グラハムマガジン」の編集者としてジョージ・レックス・グラハムから雇われたことであり、その地位ポー持っていたものだった。しかし、グリスウォルドはポーより高給払われ、しかも雑誌論調支配できるように手配された。それから間もなくポーは『アメリカの詩人と詩』と題する一連の講義を行うようになり、その最初のものは1843年11月25日フィラデルフィア行われたポーは大聴衆の前で公然とグリスウォルドを攻撃し同様な講義でも同じことを続けたグラハムは、これらの講義の間にポーが、「十分に覚えて置かれるほどの力で、グリスウォルド氏の指関節ぴしゃり叩いたお仕置きをした)」と言っていた。ポー1845年1月16日の手紙で、グリスウォルドと和解しようとし、その講義ではグリスウォルドが不愉快に思うようなことを全て省いていると約束した。 この二人の間の敵意となったもののもう一つ原因は、1840年代半ば詩人フランシス・サージェント・オズグッド好意取り合ったことだった。彼女もポーも、それぞれ別の配偶者結婚していたが、公然といちゃつくようになり、それが文学界ゴシップの種になった。グリスウォルドもオズグッド惚れ込んでおり、文学サロン導き、その最も忠実な守護者となった。「彼女は私が知っている中でも最も賞賛すべき女性だ」と、出版者ジェイムズ・T・フィールズ宛てて1848年書いていた。オズグッドはグリスウォルドに彼女の詩集献呈することで応じ、「彼の才能対す賞賛土産彼の寛大な性格対す尊敬貴重な文学に関する相談対す感謝の印」としていた。

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