プロボクサーとしての経歴
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「ジャック・ジョンソン (ボクサー)」の記事における「プロボクサーとしての経歴」の解説
ジョンソンのファイティング・スタイルは非常に特徴的なものだった。彼はそのころ慣習的であったスタイルよりも忍耐的なアプローチを取った。すなわち、防御的に立ち回って相手のミスを待ち、それを利用するというものである。ジョンソンは常に用心深く試合を始め、ラウンドを重ねるにつれ徐々に攻撃的なファイターになっていった。彼は対戦相手の攻撃を避けては素早いカウンターを浴びせるという攻撃を繰り返したため、相手を一撃でノックアウトするよりも執拗に打ち込むことが多かった。彼は挑みがたい印象を常に与え、勢いに乗ったときには強烈なパンチを繰り出すことができた。 ジョンソンのスタイルは非常に効果的であったが、白人の報道陣からは臆病で卑怯なものだと批判された。一方で10年前から同様のテクニックを用いていた白人の世界ヘビー級チャンピオンで、「ジェントルマン・ジム」の異名を取っていたジェームス・J・コーベットについては、白人のプレスは「ボクシング界の最も賢明な男」と賞賛していた。 1902年までに、ジョンソンは対白人戦・対黒人戦合わせて50以上の試合で勝利を収めた。1903年2月3日、ジョンソンは20以上のラウンドを重ねて黒人ヘビー級王者“デンバー”エド・マーティンを破り、初のタイトルとなる、黒人達によって設立された黒人ヘビー級王座(当時の黒人ボクサーは黒人用のタイトルしか挑戦できなかった)を獲得した。ジョンソンは世界王座を手に入れようと試みたが、世界ヘビー級チャンピオンであったジェームス・J・ジェフリーズがカラーライン制度を利用しジョンソンとは戦おうとしなかったため、果たすことができなかった。黒人はタイトル戦以外の舞台でならば白人と対戦することができたが、アメリカにおいて世界ヘビー級チャンピオンという座は大変な栄誉であり、当時は黒人がそれを競い合うに値するなどとはまったく考えられていなかったのだ。しかし、ジョンソンは1907年に元チャンピオンのボブ・フィッシモンズと対戦する機会を得る。当時44歳のフィッシモンズには昔日の面影無く、ジョンソンはたやすく2ラウンドKOで勝利した。 黒人ヘビー級王座の防衛記録を17にまで伸ばしたジョンソンは1908年12月26日にようやく世界ヘビー級のタイトルを手に入れた。カナダ人のチャンピオン、トミー・バーンズを世界中追い掛け回して公の場で罵りつづけ、オーストラリアのシドニーでの試合に持ち込んだのである。試合は20,000人を超える観客の前で、レフェリーはなんとバーンズのマネージャーが務めたが、ハンデにはならなかった。ジョンソンは今までの恨みを晴らすかのようにバーンズをいたぶり続け、14ラウンド目にレフェリーが試合を止めなかったため、見かねた警察官が乱入して試合をやめさせた。これによりレフェリーはTKOの裁定を下してタイトルはジョンソンのものとなったが、それまでにジョンソンは何度もチャンピオンを打ちのめしていた。試合中、ジョンソンはバーンズとそのリングサイドのクルーを嘲っていた。バーンズが崩れ落ちそうになるたびに、ジョンソンは彼を掴まえてもう一度立たせ、さらに攻撃を加え続けた。ジョンソンがフィニッシュを決める瞬間、バーンズの敗北を映し出さないためにカメラが停められた。 ジョンソンがバーンズに勝利してからというもの、白人の間では人種的な憎悪の念が広まり、ジャック・ロンドンのような社会主義者でさえ、ジョンソン(類人猿とまで戯画化された)からベルトを奪取し、それを本来保持すべき「優生種」の白人の元へもたらす「グレート・ホワイト・ホープ」(Great White Hope、白人の期待の星)の到来を切望した。そのため、ジョンソンはこうした「グレート・ホワイト・ホープ」としてプロモーターが用意した数多くの選手と立て続けに試合をさせられたが、その多くはエキシビション・マッチであった。 もっとも、白人ボクサーとの対戦はジョンソン自身の望むところでもあった。黒人ボクサー同士のタイトルマッチでは、当時の観客へは訴求力を持たず、金にならなかったのである。黒人ボクサーからの対戦要求を拒み、実質的にカラーラインを引いたに等しいジョンソンに対し、黒人コミュニティは失望の声を上げた。なかでも黒人強豪ジョー・ジャネット(1909に黒人ヘビー級王座奪取)の憤りは激しく、「世界チャンピオンになって、ジャックは旧友を忘れてしまった。彼は同胞に対してカラーラインを引いた」と非難した。 1909年だけでも、ジョンソンはヴィクター・マクラグレン、フランク・モラン、トニー・ロス、アル・カウフマン、ミドル級チャンピオンのスタンリー・ケッチェルらを退けた。ケッチェルとの試合では両者とも最後まで熱烈な戦いを繰り広げたが、最終12ラウンドにケッチェルがジョンソンの頭に右パンチを叩き込み、ジョンソンからダウンを奪った。ゆっくりと立ち上がったジョンソンはケッチェルの顎にストレートを放ち、何本かの歯をへし折りKOした。フィラデルフィア・ジャック・オブライエンとの試合はジョンソンにとっては不本意なものであった。オブライエンの161ポンドに対して205ポンドと体格差の利のあったジョンソンは、この試合に6ラウンド引き分けという結果しか残すことができなかったのである。
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プロボクサーとしての経歴
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「鬼塚勝也」の記事における「プロボクサーとしての経歴」の解説
1988年4月18日、1R 1分53秒 KO勝ちでプロデビュー。以後3試合連続1R KO勝ち。当時世界タイトルマッチで日本に来ていた世界J・バンダム級チャンピオン ヒルベルト・ローマンと公開スパーリングの相手を務める。 1989年2月27日、2R KO勝ちで全日本新人王決定戦 新人王獲得(技能賞)。 1990年5月22日、東洋チャンピオンと敵地で戦い7R TKO勝ちで世界ランク入り。その後初のロサンゼルスキャンプでIBFバンダム級チャンピオン オルランド・カニザレスやWBC・IBF統一ライトフライ級チャンピオン ウンベルト・ゴンザレス(通称:チキータ)のスパーリングパートナーを務める。 10月15日、日本スーパーフライ級王者・中島俊一に挑み、10R TKO勝ち。王座獲得に成功。その後、3度の防衛に成功。 1992年4月10日、WBA世界スーパーフライ級の王座決定戦で僅差な勝利で王座獲得。試合は明らかに鬼塚が劣勢で、試合後も笑顔がなかっただけに判定後相手選手が泣き崩れる事態が起き、物議を醸した[要出典]。9月11日、5R TKO勝ちで初防衛戦。 12月11日、2度目の防衛戦でランキング1位の指名挑戦者アルマンド・カストロ(メキシコ)と対戦。前王者のカオサイからダウンを奪ったこともある強打の挑戦者に初回、打ちおとすような右でぐらつくシーンもあったが打ち合いを好むチャレンジャーに接近戦を挑み打ち勝った。明らかに判定で上回っているにも関わらず激しく打ち合う姿は賞賛され、この試合は鬼塚のベストバウトとも言われている。 以後、5度目の防衛戦に成功(詳細後述)。 アルマンド・カストロ戦などが評価され世界ボクシング協会よりスーパーチャンピオンと認定されスーパーチャンピオンベルトが贈られる。 1994年9月18日、6度目の防衛戦では1位の李炯哲と指名試合。1Rから一進一退の攻防が続き9R2分55秒、挑戦者の連打を浴びレフェリーストップで初黒星。試合の翌日に網膜剥離により引退を表明。次の日に帝京大学病院に入院する。
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