プロボクサーとしての経歴とは? わかりやすく解説

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プロボクサーとしての経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 03:03 UTC 版)

ジャック・ジョンソン (ボクサー)」の記事における「プロボクサーとしての経歴」の解説

ジョンソンのファイティング・スタイルは非常に特徴的なものだった。彼はそのころ慣習的であったスタイルよりも忍耐的なアプローチ取った。すなわち、防御的に立ち回って相手ミス待ち、それを利用するというものであるジョンソンは常に用心深く試合始めラウンド重ねるにつれ徐々に攻撃的なファイターになっていった。彼は対戦相手攻撃避けては素早いカウンター浴びせるという攻撃繰り返したため、相手一撃ノックアウトするよりも執拗に打ち込むことが多かった。彼は挑みがたい印象を常に与え勢い乗ったときには強烈なパンチ繰り出すことができた。 ジョンソンスタイルは非常に効果的であったが、白人報道陣からは臆病で卑怯なものだと批判された。一方で10年前から同様のテクニック用いていた白人世界ヘビー級チャンピオンで、「ジェントルマン・ジム」の異名取っていたジェームス・J・コーベットについては、白人プレスは「ボクシング界の最も賢明な男」と賞賛していた。 1902年までに、ジョンソンは対白人戦・対黒人合わせて50上の試合勝利を収めた1903年2月3日ジョンソン20上のラウンド重ねて黒人ヘビー級王者デンバー”エド・マーティンを破り、初のタイトルとなる、黒人達によって設立され黒人ヘビー級王座当時黒人ボクサー黒人用のタイトルしか挑戦できなかった)を獲得したジョンソン世界王座手に入れよう試みたが、世界ヘビー級チャンピオンであったジェームス・J・ジェフリーズカラーライン制度利用しジョンソンとは戦おうとしなかったため、果たすことができなかった。黒人タイトル戦以外の舞台でならば白人対戦することができたが、アメリカにおいて世界ヘビー級チャンピオンという座は大変な栄誉であり、当時黒人がそれを競い合う値するなどとはまった考えられていなかったのだ。しかし、ジョンソン1907年に元チャンピオンボブ・フィッシモンズ対戦する機会を得る。当時44歳フィッシモンズには昔日面影無くジョンソンたやすく2ラウンドKO勝利した黒人ヘビー級王座防衛記録17にまで伸ばしたジョンソン1908年12月26日にようやく世界ヘビー級タイトル手に入れたカナダ人チャンピオントミー・バーンズ世界中追い掛け回して公の場罵りつづけ、オーストラリアシドニーでの試合持ち込んだのである試合20,000人を超える観客の前で、レフェリーはなんとバーンズマネージャー務めたが、ハンデにはならなかった。ジョンソン今まで恨みを晴らすかのようにバーンズいたぶり続け14ラウンド目にレフェリー試合止めなかったため、見かねた警察官乱入して試合をやめさせた。これによりレフェリーTKO裁定下してタイトルジョンソンのものとなったが、それまでジョンソン何度もチャンピオン打ちのめしていた。試合中ジョンソンバーンズとそのリングサイドクルー嘲っていた。バーンズ崩れ落ちそうになるたびに、ジョンソンは彼を掴まえてもう一度立たせ、さらに攻撃加え続けたジョンソンフィニッシュ決め瞬間バーンズ敗北映し出さないためにカメラ停められた。 ジョンソンバーンズ勝利してからというもの、白人の間では人種的な憎悪の念が広まりジャック・ロンドンのような社会主義者でさえ、ジョンソン類人猿とまで戯画化された)からベルト奪取し、それを本来保持すべき「優生種」の白人元へもたらす「グレート・ホワイト・ホープ」(Great White Hope白人期待の星)の到来切望した。そのため、ジョンソンはこうした「グレート・ホワイト・ホープ」としてプロモーター用意した数多く選手立て続け試合させられたが、その多くエキシビション・マッチであった。 もっとも、白人ボクサーとの対戦ジョンソン自身望むところでもあった。黒人ボクサー同士タイトルマッチでは、当時観客へは訴求力持たず、金にならなかったのである黒人ボクサーからの対戦要求拒み実質的にカラーライン引いた等しジョンソン対し黒人コミュニティ失望の声を上げたなかでも黒人強豪ジョー・ジャネット(1909に黒人ヘビー級王座奪取)の憤り激しく、「世界チャンピオンになってジャック旧友忘れてしまった。彼は同胞に対してカラーライン引いた」と非難した1909年だけでも、ジョンソンヴィクター・マクラグレン、フランク・モラン、トニー・ロス、アル・カウフマン、ミドル級チャンピオンスタンリー・ケッチェルらを退けた。ケッチェルとの試合では両者とも最後まで熱烈な戦い繰り広げたが、最終12ラウンドにケッチェルがジョンソンの頭に右パンチ叩き込みジョンソンからダウン奪ったゆっくりと立ち上がったジョンソンはケッチェルの顎にストレート放ち、何本かの歯をへし折りKOした。フィラデルフィア・ジャック・オブライエンとの試合ジョンソンにとっては不本意なものであったオブライエン161ポンドに対して205ポンドと体格差の利のあったジョンソンは、この試合に6ラウンド引き分けという結果しか残すことができなかったのである

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プロボクサーとしての経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 13:55 UTC 版)

鬼塚勝也」の記事における「プロボクサーとしての経歴」の解説

1988年4月18日、1R 1分53KO勝ちでプロデビュー以後3試合連続1R KO勝ち。当時世界タイトルマッチ日本来ていた世界J・バンダムチャンピオン ヒルベルト・ローマン公開スパーリング相手務める。 1989年2月27日2R KO勝ちで全日本新人王決定戦 新人王獲得技能賞)。 1990年5月22日東洋チャンピオン敵地戦い7R TKO勝ちで世界ランク入りその後初のロサンゼルスキャンプでIBFバンダムチャンピオン オルランド・カニザレスWBCIBF統一ライトフライ級チャンピオン ウンベルト・ゴンザレス通称チキータ)のスパーリングパートナー務める。 10月15日日本スーパーフライ級王者中島俊一挑み、10R TKO勝ち。王座獲得成功その後3度防衛成功1992年4月10日WBA世界スーパーフライ級王座決定戦僅差勝利王座獲得試合明らかに鬼塚劣勢で、試合後も笑顔がなかっただけに判定相手選手泣き崩れる事態起き物議を醸した[要出典]。9月11日5R TKO勝ちで初防衛戦12月11日2度目の防衛戦ランキング1位の指名挑戦者アルマンド・カストロ(メキシコ)と対戦前王者のカオサイからダウン奪ったこともある強打挑戦者初回打ちおとすような右でぐらつくシーンもあったが打ち合いを好むチャレンジャー接近戦挑み打ち勝った明らかに判定上回っているにも関わらず激しく打ち合う姿は賞賛され、この試合鬼塚ベストバウトとも言われている。 以後5度目の防衛戦成功詳細後述)。 アルマンド・カストロ戦などが評価され世界ボクシング協会よりスーパーチャンピオン認定されスーパーチャンピオンベルトが贈られる1994年9月18日6度目の防衛戦では1位の李炯哲指名試合。1Rから一進一退の攻防続き9R2分55秒、挑戦者連打浴びレフェリーストップで初黒星試合翌日網膜剥離により引退を表明次の日に帝京大学病院入院する

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