バンドの歩み
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ALLERGYを解散した宙也は、ちわきまゆみのユニットMENUをサポートしていたベーシスト鈴木正美と当時ドラムスを担当していた京極輝男の3人で新たなバンドを結成することを決意する。ここに、PERSONZのギタリスト本田毅、メトロファルスのキーボーディスト小滝満が加わり、1985年3月にCHU-YA&De-LAX(当初はDe-Lux)が結成された。 10月以降は、ライブハウスツアーを行うまでになった。既にレパートリーには、1stアルバム『SENSATION』収録曲である「熱帯LADY」、「突然炎のごとく」、「G.N.A.」、「SERIOUS MOOD」、「BLUE HEART LOVER」が含まれていた。また、4thアルバム『EMOTIONAL MARKET』で日の目を見た「ONE PLUS ONE」もこの時期のライブで演奏されていた。 バンド名を単にDe-LAXとしてしばらくし、本田毅の所属するPERSONZもブレイクし始め、両立が困難になったため脱退、サポートに友森昭一やローザ ルクセンブルグの玉城宏志を迎え活動を続けて行くが、小滝満も戸川純&ヤプーズに専念するために脱退。京極輝男がドラムスからパッカーション&キーボード担当にコンバートし、永井利光がサポートとして加わるものの、正式なギタリスト、ドラムスが不在のままであった。 BOØWYのドラムスだった高橋まことの元にDe-LAXへの参加要請があったのは、1987年暮れのBOØWY最後のツアー中だった。その頃、新宿LOFTに出入りしていた榊原秀樹は、ギタリスト募集を聞きつけ、バンドのオーディションに参加することとした。 1988年2月18日、デビュー当初のメンバーで初ライブを行った。 1988年8月21日、フォーライフ・レコードから1stアルバム『SENSATION』を発売し、メジャーデビュー。バンドブームの中にあっても、どこにも属さない、誰にも媚びない、野性味あふれる唯一無比の"ライヴバンド"として精力的に活動。 7か月をかけ26か所56公演を行ったDe-LAX史上最大規模となるライブツアー『De-LAX NEUROMANCER '89 "SPIRITS A GO-GO"』で、日本武道館のライブを2度行い、アメリカのニューヨークでライブも行った。 だが、1992年5thアルバム『Our Favourite Roads』発売前、榊原秀樹が方向性の違いにより脱退を要望。その後、正式なギタリストが見つからず、このままでは活動ができないという事になり、1992年12月25日の渋谷公会堂公演のライブで、解散することを発表。翌年1993年3月24日の渋谷公会堂公演のライブを持って解散した。 それから約5年後、De-LAXがメジャーデビューした年と同じ年に新宿に誕生した日清パワーステーションが、6月いっぱいを持って閉店することになり、その記念として、一夜限りの再結成を果たし、ライブ『De-LAX '98 "HELLO! POWER STATION"』を行った。 1999年7月17日、約7年ぶりとなるシングル「beat'N'message」をリリース。4か月後には、こちらも約7年ぶりとなるアルバム『RenaiSSance』をリリースし、活動を再開。 だが、2002年にメンバーの諸事情により活動を休止。 その後、2005年に活動を再開。 デビュー20周年を記念した2008年には、約9年ぶりとなるアルバム『ART+BEAT』と、約7年ぶりとなるベスト・アルバム『"20th Anniversary Premium Collection"』を同時リリース。 現在も、メンバーは変わったものの、活動を続けている。
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バンドの歩み
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「Janne Da Arc」の記事における「バンドの歩み」の解説
大阪府枚方市で結成。前身は同じ中学校にいたyasu、ka-yu、youの3人と他2人の同級生で結成された「結膜炎」というバンド。その後ka-yuが脱退、バンド名も「インターセクション」に改めた(「インターセクション」の由来はX JAPAN(当時はX)のXがクロスしているので「交差点」を英語にしたことから)。その後は「オキャンティーズ」と再び改名。ka-yu以外のメンバーが枚方西高校に進学、高校2年生頃にkiyoが加入。高校3年生頃にバンド名が「Janne Da Arc」になる。高校卒業後に当時のベーシストが脱退、結膜炎時代はギターだったka-yuがベースとして再加入する。1996年にはドラマーが脱退、同じ高校出身で元より親交のあったshujiに加入を依頼し、受け入れた。 1996年5月9日、現在のメンバーでの活動を開始。地元のライブハウスである枚方BLOW DOWNを拠点に活動していた。インディーズ時代には、X JAPANを意識したかのような派手なメイクをしていた。これは、Janne Da Arcの前身バンドの「結膜炎」がX JAPANのコピーバンドであったからという説があるが、yasu自身のインタビューによると、「バンドの恰好をヴィジュアル系っぽくすれば、ライブハウスの動員が増える」という魂胆と、もともとDEAD ENDの音楽性に大きく影響を受けていたことが理由である。youとkiyoはメイクをすることに抵抗感を持っていたため、yasuやka-yuと比べると比較的薄めのメイクで活動していたが、メジャーデビューの頃にはむしろ一番メイクにこだわるようになっていた。shujiはメイクに抵抗は無かったが、かといって好きではなかったと語っている。 1998年2月22日に初のワンマンライブ。4月に初のミニアルバム、『Dearly』をリリース。その一年後の1999年2月22日には赤坂BLITZで二千人ほど動員するまでになる。ブレイクの一因は、テレビ番組「Break Out」に出演したことにあるが、同番組主催のオムニバスCDへの参加を辞退した結果、交換条件として以降のインディーズ作品(『Resist』(1998年12月)及び『CHAOS MODE』(1999年3月))を「Break Out」のマーク付きで出すことになった。 1999年5月19日に、シングル「RED ZONE」で、エイベックスからメジャーデビュー。デビュー当時の触れ込みは「ヴィジュアル系バンドの最終兵器」。卓越した演奏技術とメロディアスな楽曲が好評を得る。メジャーデビュー後、人気上昇と共にだんだんメイクが薄くなっていき、現在では一般的なヴィジュアル系のイメージはあまりない(yasuは自身のソロで、やや派手なファッションに回帰した)。本人達は、DVDの副音声等で「他の人に何言われようがずっと自分達はヴィジュアル系って言おう」と言っている。 デビュー当時はファンの大半が女性だったが、「2002 tour GAIA」の頃から男性ファンが増え始め、「tour 2003 ANOTHER STORY」でさらに増え、ついには男性限定ライブ「男尻Night」を行う様になった。2008年現在では、男性ファンが5割近くを占めている(オリコンのリサーチなどの情報より)。 2004年10月から、テレビアニメ『ブラック・ジャック』のオープニングテーマとして「月光花」が使用され、知名度が上昇する。累計30万枚を超える大ヒットを記録し、『ミュージックステーション』にも出演した。 2005年9月14日には、韓国でアルバム『JOKER』が発売され、海外進出も果たした。 2007年1月26日に、オフィシャルサイト上で、現在のメンバーで結成10年を迎えた節目の新企画として、バンド活動と並行し、それぞれのソロ活動もしていくと発表した。 2019年3月31日、「Janne Da Arcは大切だし、比較するものではないかもしれないが、どちらかを選べと言われればJanne Da Arcよりも大事にしたいものが見つかった」という決断によりka-yuが脱退、所属事務所を退社。 2019年4月1日、公式ウェブサイト上でka-yuの脱退、及びJanne Da Arcの解散が発表された。
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