バンドの歩みとは? わかりやすく解説

バンドの歩み

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 22:47 UTC 版)

De-LAX」の記事における「バンドの歩み」の解説

ALLERGY解散した宙也は、ちわきまゆみユニットMENUサポートしていたベーシスト鈴木正美と当時ドラムス担当していた京極輝男の3人で新たなバンド結成することを決意する。ここに、PERSONZギタリスト本田毅メトロファルスキーボーディスト小滝満加わり1985年3月にCHU-YA&De-LAX当初はDe-Lux)が結成された。 10月以降は、ライブハウスツアーを行うまでになった。既にレパートリーには、1stアルバムSENSATION収録曲である「熱帯LADY」、「突然炎のごとく」、「G.N.A.」、「SERIOUS MOOD」、「BLUE HEART LOVER」が含まれていた。また、4thアルバムEMOTIONAL MARKET』で日の目を見たONE PLUS ONE」もこの時期ライブ演奏されていた。 バンド名を単にDe-LAXとしてしばらくし、本田毅所属するPERSONZブレイク始め両立困難になったため脱退サポート友森昭一ローザ ルクセンブルグ玉城宏志を迎え活動続けて行くが、小滝満戸川純ヤプーズ専念するために脱退京極輝男がドラムスからパッカーション&キーボード担当コンバートし、永井利光サポートとして加わるものの、正式なギタリストドラムス不在のままであったBOØWYドラムスだった高橋まこと元にDe-LAXへの参加要請があったのは、1987年暮れBOØWY最後ツアー中だった。その頃新宿LOFT出入りしていた榊原秀樹は、ギタリスト募集聞きつけ、バンドオーディション参加することとした。 1988年2月18日デビュー当初メンバーで初ライブ行った1988年8月21日フォーライフ・レコードから1stアルバムSENSATION』を発売しメジャーデビューバンドブーム中にあっても、どこにも属さない誰にも媚びない野性味あふれる唯一無比の"ライヴバンド"として精力的に活動。 7か月をかけ26か所56公演行ったDe-LAX史上最大規模となるライブツアーDe-LAX NEUROMANCER '89 "SPIRITS A GO-GO"』で、日本武道館ライブ2度行いアメリカニューヨークでライブ行った。 だが、1992年5thアルバムOur Favourite Roads発売前、榊原秀樹方向性違いにより脱退要望その後正式なギタリストが見つからずこのままでは活動できないという事になり、1992年12月25日渋谷公会堂公演ライブで、解散することを発表翌年1993年3月24日渋谷公会堂公演ライブ持って解散した。 それから約5年後De-LAXメジャーデビューした年と同じ年に新宿誕生した日清パワーステーションが、6月いっぱい持って閉店することになり、その記念として、一夜限り再結成果たしライブDe-LAX '98 "HELLO! POWER STATION"』を行った1999年7月17日、約7年ぶりとなるシングルbeat'N'message」をリリース。4か月後には、こちらも約7年ぶりとなるアルバムRenaiSSance』をリリースし活動再開。 だが、2002年メンバー諸事情により活動休止その後2005年活動再開デビュー20周年記念した2008年には、約9年ぶりとなるアルバムART+BEAT』と、約7年ぶりとなるベスト・アルバム『"20th Anniversary Premium Collection"』を同時リリース。 現在も、メンバー変わったものの、活動続けている。

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バンドの歩み

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 18:31 UTC 版)

Janne Da Arc」の記事における「バンドの歩み」の解説

大阪府枚方市結成前身は同じ中学校にいたyasuka-yu、youの3人と他2人同級生結成された「結膜炎」というバンドその後ka-yu脱退バンド名も「インターセクション」に改めた(「インターセクション」の由来X JAPAN当時はX)のXがクロスしているので「交差点」を英語にしたことから)。その後は「オキャンティーズ」と再び改名ka-yu以外のメンバー枚方西高校進学高校2年生頃にkiyo加入高校3年生頃にバンド名が「Janne Da Arc」になる。高校卒業後に当時ベーシスト脱退結膜炎時代ギターだったka-yuベースとして再加入する。1996年にはドラマー脱退、同じ高校出身元より親交のあったshuji加入依頼し受け入れた1996年5月9日現在のメンバーでの活動開始地元ライブハウスである枚方BLOW DOWN拠点活動していた。インディーズ時代には、X JAPAN意識したのような派手なメイクをしていた。これは、Janne Da Arc前身バンドの「結膜炎」がX JAPANコピーバンドであったからという説があるが、yasu自身インタビューによると、「バンド恰好ヴィジュアル系っぽくすればライブハウス動員増える」という魂胆と、もともとDEAD END音楽性大きく影響受けていたことが理由である。youとkiyoメイクをすることに抵抗感持っていたため、yasuka-yu比べる比較薄めメイク活動していたが、メジャーデビューの頃にはむしろ一番メイクにこだわるようになっていた。shujiメイク抵抗無かったが、かといって好きではなかったと語っている。 1998年2月22日初のワンマンライブ4月に初のミニアルバム、『Dearly』をリリース。その一年後1999年2月22日には赤坂BLITZ二千人ほど動員するまでになる。ブレイク一因は、テレビ番組「Break Out」出演したことにあるが、同番組主催オムニバスCDへの参加辞退した結果交換条件として以降インディーズ作品(『Resist』(1998年12月)及び『CHAOS MODE』(1999年3月))を「Break Out」マーク付きで出すことになった1999年5月19日に、シングル「RED ZONE」で、エイベックスからメジャーデビューデビュー当時触れ込みは「ヴィジュアル系バンド最終兵器」。卓越した演奏技術メロディアス楽曲好評を得るメジャーデビュー後人気上昇と共にだんだんメイク薄くなっていき、現在では一般的なヴィジュアル系イメージあまりないyasu自身ソロで、やや派手なファッション回帰した)。本人達は、DVD副音声等で「他の人に何言われようがずっと自分達はヴィジュアル系って言おうと言っている。 デビュー当時ファン大半女性だったが、「2002 tour GAIA」の頃から男性ファン増え始め、「tour 2003 ANOTHER STORY」でさらに増えついには男性限定ライブ男尻Night」を行う様になった。2008年現在では、男性ファンが5割近く占めている(オリコンリサーチなどの情報より)。 2004年10月から、テレビアニメ『ブラック・ジャック』オープニングテーマとして「月光花」が使用され知名度上昇する累計30万枚超える大ヒット記録し、『ミュージックステーション』にも出演した2005年9月14日には、韓国アルバムJOKER』が発売され海外進出果たした2007年1月26日に、オフィシャルサイト上で現在のメンバー結成10年迎えた節目の新企画として、バンド活動並行しそれぞれのソロ活動もしていくと発表した2019年3月31日、「Janne Da Arc大切だし、比較するものではないかしれないが、どちらか選べと言われればJanne Da Arcよりも大事にしたいものが見つかった」という決断によりka-yu脱退所属事務所退社2019年4月1日公式ウェブサイト上でka-yu脱退、及びJanne Da Arc解散発表された。

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