ニューヨークでの保管
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 08:48 UTC 版)
「ゲルニカ (絵画)」の記事における「ニューヨークでの保管」の解説
1937年12月、アメリカ芸術家会議は共和国支援のために『ゲルニカ展』という共和国支援を企画し、この展覧会は約1年半後に実現した。1939年5月には絵画がアメリカ合衆国に送られ、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シカゴでの展覧会に出展された。すでにスペイン内戦が終結していたこともあり、アメリカでは内戦の悲劇の象徴ではなく一枚の現代美術作品と捉えられた。ゲルニカ展のオープニングにはエレノア・ルーズヴェルト(ファーストレディ)、サイモン・グッゲンハイム(英語版)(実業家)、W・アヴェレル・ハリマン(政治家)、ジョージア・オキーフ(芸術家)、ソーントン・ワイルダー(劇作家)などが出席した。美術評論家のエリザベス・マコースランドはピカソが孤立から社会との連帯に転じたことを象徴する絵であるとしたが、美術記者のエドウィン・オールデン・ジュエルは現代美術に侵入しつつある異質な意図の典型だとした。鑑賞者の賛否は分かれ、スペインの孤児を救援するための収益は少額にとどまった。1939年9月には第二次世界大戦が勃発したため、ピカソは絵画を戦場に近いフランスに戻すことを躊躇し、そのままアメリカのニューヨーク近代美術館(MoMA)に保管された。1940年から1942年にはピカソの回顧展がシカゴを筆頭にアメリカ合衆国内の10か所で開催され、展示作品には必ずこの絵画が含まれた。 1953年には第二次大戦開戦後初めて絵画がヨーロッパに戻され、ミラノで開催されたピカソの回顧展に出展され、反戦平和のシンボルとして『朝鮮の虐殺』(1951年)とともに並べられた。1954年にはブラジルのサンパウロ近代美術館の回顧展に、1955年夏には18年ぶりにパリに戻って回顧展に出展された。1937年の初公開時とは異なり、回顧展の最重要作品としてパリ市民に称えられた。ピカソ自身は1955年の夏中ずっとニースに滞在しており、このパリでの回顧展の際も、また死去するまでにも再び絵画を間近で見ることはなかった。1955年秋から1956年にはブリュッセルとストックホルムに加え、ドイツのミュンヘン、ケルン、ハンブルクで展示された。ドイツ国民は主題の奥に潜むドイツ空軍を意識することなく、現代アートの傑作として鑑賞した。1957年には再びアメリカ合衆国に渡ると、3か所で展示された後にニューヨーク近代美術館に戻り、1958年以後には幾度もの修復作業がなされた。1968年にはフランコ政権で副首相を務めるルイス・カレーロ・ブランコが美術庁長官に手紙を送り、絵画がスペインの財産であること、スペインへの返還をニューヨーク近代美術館に申し立てるよう求めた。1969年には美術庁長官が絵画のスペインへの返還を求める声明を出し、フランコ自身がそれを望んでいると付け加えた。ニューヨーク近代美術館はピカソの意思を尊重するとし、ピカソ本人は現時点では絵画がニューヨークにとどまること、スペイン人民の自由が確立した時点でスペイン政府に返還することを希望した。1950-1960年代のスペインでは、独裁政権に対する抵抗の印としてこの絵画の複製を飾る家庭が多く、バスク地方ではそれが特に顕著だった。 1960年代後半のアメリカ合衆国でベトナム戦争参戦が誤りだったという論調が趨勢を占めると、改めてこの絵画の様式が注目されるようになり、反戦のシンボルとしてデモなどに使用された。アメリカ軍によるベトナムでの残虐な軍事行動が報じられると、一部の美術家や著作家たちは自国が絵画を手元に置いておく権利がないと考え、1967年には約400人の美術家・著作家が、1970年には256人の美術家・著作家がピカソに対して絵画の撤去を要請する運動を行った。1973年4月8日、ピカソはフランスのムージャンにある自宅で死去した。1974年2月にはアーティストのトニー・シャフラジ(英語版)が赤色のスプレー缶で落書きを行う事件が起こり、これ以後の展示中は常に絵画のそばに監視員が配備された。
※この「ニューヨークでの保管」の解説は、「ゲルニカ (絵画)」の解説の一部です。
「ニューヨークでの保管」を含む「ゲルニカ (絵画)」の記事については、「ゲルニカ (絵画)」の概要を参照ください。
- ニューヨークでの保管のページへのリンク