ニューヨークからサンフランシスコへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 10:10 UTC 版)
「サンフランシスコ・ジャイアンツ」の記事における「ニューヨークからサンフランシスコへ」の解説
1958年にはサンフランシスコに移転した。これは観客数の不振に悩むオーナーのホーレス・C・ストーンハムが、西海岸の球団増加を企図するウォルター・オマリーの呼びかけに応じたものである。移転後しばらくはシールズ・スタジアムを本拠地として使用していたが、小規模な球場にもかかわらず観客動員はニューヨーク時代を大きく上回った。1960年4月12日に新本拠地キャンドルスティック・パークが完成した。 1962年にはドジャースとのプレーオフを制してリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズでは再びヤンキースと対戦したが、本拠地サンフランシスコの天候不良で4日もブランクが開き、リズムが狂ったのか最終戦で破れて世界一はならなかった。1960年代にはメイズの他、打撃陣ではオーランド・セペタ、ウィリー・マッコビー、ボビー・ボンズ、投手陣ではゲイロード・ペリー、フアン・マリシャル等の好選手が現れ、また村上雅則が日本人初のメジャーリーガーとして1964年から2年間プレーしたが、しばらく優勝から遠ざかった。 1965年から1968年まで、ドジャースやカージナルスに優勝を阻まれ、4年連続でリーグ2位。1969年には東西地区制が導入され、ナショナルリーグ西地区所属となったが、この年も地区2位に終わっている。1971年には初の地区優勝を飾るものの、リーグチャンピオンシップシリーズでピッツバーグ・パイレーツに敗れた。1970年代の優勝はこれのみで、以降は負け越しのシーズンが多くなり、1980年代に入っても低迷が続くこととなる。1982年にはボビーの息子、バリー・ボンズをドラフト指名したが、契約金で折り合わず、彼のジャイアンツデビューはしばらく先の事となる。1985年にはチーム史上初めてシーズン100敗を記録し、前年に続き2年連続で地区最下位に沈んだ。 ライバルのドジャースとは対称的に低迷が続いたが、1986年にウィル・クラーク等が台頭してくると復活の兆しを見せ、翌1987年のカージナルスとのリーグ優勝決定戦では敗れたが、選手に自信が戻った。1989年にはオークランド・アスレチックスとのベイブリッジシリーズが展開されたが、途中サンフランシスコ地方を襲った大地震により、10日間以上も中断されるハプニングが起こった。本拠地での仕切りなおしの第3戦では救援活動に従事していた人達が始球式を努めたが、4連敗を喫し、アスレチックスの軍門に下った。
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