テュルク族の参入と黄金時代
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「イランの歴史」の記事における「テュルク族の参入と黄金時代」の解説
カスピ海沿岸ではイスラーム化は遅々として進まず、アッバース朝もたびたび侵攻をおこなっているが、恒久的な支配権を打ち立てることは出来なかった。このような中でシーア派がこの地域に勢力を徐々に扶植し、9世紀後半にはシーア派の一派ザイド派のアリー朝が成立するなど地域独自の勢力が形成されていた。10世紀にはズィヤール朝が成立(927年)、ザンジュの乱ののち衰退著しいアッバース朝の領域へアルボルズ山脈を越えて進出してゆく。この過程で優秀な歩兵としてダイラム人が脚光を浴び、その指導者のブワイフ家が932年、ブワイフ朝を建てた。ブワイフ朝はその後イラン高原からイラクを席捲、945年にはバグダードに入城して、アッバース朝カリフからアミール・アル=ウマラーに任じられた。配下の軍人にイクターとして徴税権を分与して軍事力を確保する一方、統治権は自らのもとにおいた。またブワイフ家はシーア派を奉じており、スンナ派のアッバース朝がその支配権を承認するという状況を引き起こした。この時代には西方エジプトではシーア派イスマーイール派のファーティマ朝がカリフを称し、アッバース朝カリフの権威は地に落ち、現実の支配者に正統性を付与する存在に過ぎなくなる。 同時期、ホラーサーン方面ではテュルク族が政治の表面にあらわれてくる。9世紀半ばころに中央アジアの草原地帯に形成されたカラハン朝が10世紀半ばには大勢力となってマー・ワラー・アンナフル方面へ進出してきた。伝承では960年、20万帳におよぶテュルク系遊牧民がイスラームへ改宗したという。これ以降、カラハン朝はサーマーン朝とマー・ワラー・アンナフルとホラーサーン北部をめぐって激しく争う。一方962年、サーマーン朝のテュルク系奴隷軍人でガズナ太守となったアルプテギーンがサーマーン朝から半独立、勢力を伸ばして972年にはガズナ朝となる。サーマーン朝は北からカラハン朝、南からガズナ朝に挟撃され999年に滅亡した。 11世紀初めのイラン世界の勢力配置は北東から順にマー・ワラー・アンナフルにカラハン朝、ホラーサーンにガズナ朝、イラン高原にブワイフ朝という状況であった。カラハン朝、ブワイフ朝が内紛に見舞われて弱体化する一方、998年に即位したマフムードの下でガズナ朝は最盛期を迎え、北インドから西部イランにまで遠征しており、インドのイスラーム化はこのころにはじまる。ガズナ朝はサーマーン朝をついでペルシア文化を保護した。しかしマフムードが1030年に没するとガズナ朝は急速に勢力を後退させ、イラン世界全体が混乱状態におちいる。9/10世紀はイラン世界が東西にやや分立する時代であった。直轄地の多い西方が内乱で疲弊してゆく一方、東方ではサーサーン朝以来の在地勢力が温存され生産力の拡大が見られた。これを背景に政治勢力も東西に分かれたが、ガズナ朝の後退後にこれを克服したのがトゥグリル・ベグ率いるオグズ系テュルク族のセルジューク朝である。 セルジューク朝は、遊牧的部族紐帯を維持したままイスラームへと改宗、集団としてイスラーム世界に参入して王朝を開いたという点で、これ以降の西アジアにおけるテュルク系諸王朝の嚆矢ともいえるものである。セルジューク朝は1038年のニーシャープールへの無血入城ののちホラーサーンでガズナ朝を破って、さらに南方・西方へと転じて勝利を得る。1055年にはトゥグリル・ベグがバグダードに入城、アッバース朝カリフから外衣と賜与品を与えられ、スンナ派ムスリムの支配者としてスルターンの称号を正式に認められた。続くアルプ・アルスラーン、マリク・シャーのもと、セルジューク朝は東部アナトリア、シリアへと勢力を広げてゆく。地中海から中央アジアにおよぶこの広大な帝国の行政を担ったのがペルシア人官僚たちであった。セルジューク朝の行政用語はペルシア語であり、在地の行政・司法を担うカーディーらもペルシア人であった。ガズナ朝にも見られるが、このようなペルシア系文人官僚をタージークといい、行政はタージークが、政治と軍事はテュルク系をはじめとする遊牧民が担い、さらにペルシア語を共通語とする枠組みがセルジューク朝のもとで完成した。イラン史を専門とする羽田正はこの体制をもつ世界を「東方イスラーム世界」と呼ぶ。このような体制は以降、20世紀に至るまでイラン世界の歴史の骨格となるのである。 タージークの頂点に位置したのが、宰相ニザームルムルクであった。彼は自らペルシア散文の名著『統治の書』(スィヤーサト・ナーメ)を著す一方、文芸・科学を保護し、レイ、エスファハーン(イスファハーン)、ニーシャープール、バルフ、マルヴなどの都市を中心にペルシア文化の黄金期が訪れる。宰相は全主要都市にニザーミーヤとよばれるマドラサ(学院)を設け、あるいはジャラーリー暦を生み出すウマル・ハイヤームの天文台建設を後援するなどした。またセルジューク朝の主要都市の一つたるバグダードにアブー・ハーミド・アル=ガザーリーなど、イスラーム史上に名高い学者らを招聘、その活動をも後援した。 スンナ派の保護者として君臨したセルジューク朝の脅威となったのは、イラン内のシーア派急進派であるイスマーイール派であった。ファーティマ朝は10世紀後半以降、イスラーム世界全体にイスマーイール派の宣教員(ダーイー)を送り込んでいたが、このころには東部山岳地帯、エスファハーン、アルボルズ山脈地帯に勢力を扶植。1090年に現在のテヘラン北方にアラムート城砦(英語版)を奪取すると、これ以降150年間にわたって散在する根拠地周辺を支配してイラン高原に無視できない勢力(ニザール派)を築き上げた。暗殺などの手段を用いて立場を確立するその政治手法は王朝統治者やスンナ派住民らに特に恐れられた。
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