テュルク族の参入と黄金時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > テュルク族の参入と黄金時代の意味・解説 

テュルク族の参入と黄金時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 20:15 UTC 版)

イランの歴史」の記事における「テュルク族の参入と黄金時代」の解説

カスピ海沿岸ではイスラーム化遅々として進まずアッバース朝もたびたび侵攻をおこなっているが、恒久的な支配権打ち立てることは出来なかった。このような中でシーア派がこの地域勢力徐々に扶植し9世紀後半にはシーア派一派ザイド派アリー朝成立するなど地域独自の勢力形成されていた。10世紀にはズィヤール朝成立927年)、ザンジュの乱ののち衰退著しアッバース朝領域アルボルズ山脈越えて進出してゆく。この過程優秀な歩兵としてダイラム人脚光を浴び、その指導者のブワイフ家が932年ブワイフ朝建てたブワイフ朝その後イラン高原からイラク席捲945年にはバグダード入城して、アッバース朝カリフからアミール・アル=ウマラー任じられた。配下軍人にイクターとして徴税分与し軍事力確保する一方統治権は自らのもとにおいた。またブワイフ家はシーア派奉じており、スンナ派アッバース朝がその支配権承認するという状況引き起こした。この時代には西方エジプトではシーア派イスマーイール派ファーティマ朝カリフ称しアッバース朝カリフ権威地に落ち現実支配者正統性付与する存在に過ぎなくなる。 同時期、ホラーサーン方面ではテュルク族政治表面あらわれてくる。9世紀半ばころに中央アジア草原地帯形成されカラハン朝10世紀半ばには大勢となってマー・ワラー・アンナフル方面進出してきた。伝承では960年20帳におよぶテュルク系遊牧民イスラーム改宗したという。これ以降カラハン朝サーマーン朝マー・ワラー・アンナフルホラーサーン北部めぐって激しく争う。一方962年サーマーン朝テュルク系奴隷軍人ガズナ太守となったアルプテギーンサーマーン朝から半独立勢力伸ばして972年にはガズナ朝となる。サーマーン朝北からカラハン朝、南からガズナ朝挟撃され999年滅亡した11世紀初めイラン世界勢力配置北東から順にマー・ワラー・アンナフルカラハン朝ホラーサーンガズナ朝イラン高原ブワイフ朝という状況であったカラハン朝ブワイフ朝内紛見舞われ弱体化する一方998年即位したマフムードの下でガズナ朝最盛期迎え北インドから西部イランにまで遠征しており、インドイスラーム化このころにはじまる。ガズナ朝サーマーン朝をついでペルシア文化保護した。しかしマフムード1030年没するガズナ朝急速に勢力後退させ、イラン世界全体混乱状態におちいる9/10世紀イラン世界東西にやや分立する時代であった直轄地の多い西方内乱疲弊してゆく一方東方ではサーサーン朝以来在地勢力温存され生産力拡大見られた。これを背景政治勢力東西分かれたが、ガズナ朝後退後にこれを克服したのがトゥグリル・ベグ率いオグズテュルク族セルジューク朝である。 セルジューク朝は、遊牧的部族紐帯維持したままイスラームへと改宗集団としてイスラーム世界参入して王朝開いたという点で、これ以降西アジアにおけるテュルク系諸王朝の嚆矢ともいえるものであるセルジューク朝1038年ニーシャープールへの無血入城ののちホラーサーンガズナ朝破って、さらに南方西方へと転じて勝利を得る。1055年にはトゥグリル・ベグバグダード入城アッバース朝カリフから外衣賜与品を与えられスンナ派ムスリム支配者としてスルターン称号正式に認められた。続くアルプ・アルスラーンマリク・シャーのもと、セルジューク朝東部アナトリアシリアへと勢力広げてゆく。地中海から中央アジアにおよぶこの広大な帝国行政担ったのがペルシア人官僚たちであったセルジューク朝行政用語はペルシア語であり、在地行政・司法を担うカーディーらもペルシア人であったガズナ朝にも見られるが、このようなペルシア系文人官僚タージークといい、行政タージークが、政治と軍事テュルク系はじめとする遊牧民担い、さらにペルシア語共通語とする枠組みセルジューク朝のもとで完成したイラン史を専門とする羽田正はこの体制をもつ世界を「東方イスラーム世界」と呼ぶ。このような体制以降20世紀に至るまでイラン世界の歴史骨格となるのであるタージーク頂点位置したのが、宰相ニザームルムルクであった。彼は自らペルシア散文名著統治の書』(スィヤーサト・ナーメ)を著す一方文芸・科学を保護しレイエスファハーンイスファハーン)、ニーシャープールバルフマルヴなどの都市中心にペルシア文化黄金期訪れる。宰相は全主要都市ニザーミーヤよばれるマドラサ学院)を設け、あるいはジャラーリー暦生み出すウマル・ハイヤーム天文台建設後援するなどした。またセルジューク朝主要都市一つたるバグダードアブー・ハーミド・アル=ガザーリーなど、イスラーム史上名高い学者らを招聘その活動をも後援したスンナ派保護者として君臨したセルジューク朝脅威となったのは、イラン内のシーア派急進派であるイスマーイール派であったファーティマ朝10世紀後半以降イスラーム世界全体イスマーイール派宣教員(ダーイー)を送り込んでいたが、このころには東部山岳地帯エスファハーンアルボルズ山脈地帯勢力扶植1090年現在のテヘラン北方アラムート城砦(英語版)を奪取すると、これ以降150年間にわたって散在する根拠地周辺支配してイラン高原無視できない勢力ニザール派)を築き上げた暗殺などの手段を用いて立場確立するその政治手法王朝統治者スンナ派住民らに特に恐れられた。

※この「テュルク族の参入と黄金時代」の解説は、「イランの歴史」の解説の一部です。
「テュルク族の参入と黄金時代」を含む「イランの歴史」の記事については、「イランの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「テュルク族の参入と黄金時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「テュルク族の参入と黄金時代」の関連用語

テュルク族の参入と黄金時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



テュルク族の参入と黄金時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのイランの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS