トルクメンバシ
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トルクメンバシ(Türkmenbaşy)とは「トルクメン人の長」という意味のトルクメン語。 主に以下の意味で用いられる。
- トルクメニスタンにおいて『国父』に該当する称号。一般には同国初代大統領サパルムラト・ニヤゾフのことを指す。
- ニヤゾフにちなんだ事柄。
- 幾つかの都市の名前。一番大きな物はソビエト連邦時代 クラスノボツクと呼ばれていた都市。トルクメンバシ (都市)を参照
- 同国に存在する都市型集落の一つで、バルカン州の地域の一部でもある。嘗てはジャンガと呼ばれていた。トルクメンバシ (都市型集落)を参照
- トルクメニスタンの1月の名前。2002年以降改名された。
- トルクメンバシ銀行:トルクメニスタンの国営商業銀行。本部はアシガバートにある。
- トルクメンバシ空港:トルクメニスタンの国際空港。この施設はトルクメンバシ市にある。
- トルクメンバシ湾:トルクメニスタン西部にあるカスピ海の湾。トルクメンバシ市の旧名に因んで クラスノボツク湾 とも呼ばれている。
テュルクメンバシュ
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「サパルムラト・ニヤゾフ」の記事における「テュルクメンバシュ」の解説
ソビエト連邦の崩壊後憲法採択と関連して1992年6月21日、ニヤゾフはトルクメニスタンの大統領に選出された。1993年、議会(メジリス)によりテュルクメンバシュ(国父)の称号を授与された。独立後は個人崇拝色を強め、権威主義的な超独裁体制を敷き、人民会議により1999年12月には終身大統領と宣言され、旧ソ連初の終身大統領となった。メディアでも学校でも「祖国を、サバルムラト・テュルクメンバシュを、祖国の神聖な旗を裏切った時には、私の息は絶えるがよい」という誓いの詩が毎日唱えられた。2001年にはニヤゾフ著『ルーフナーマ(魂の書)』が発表され、「聖なる書」として扱われた。また、ニヤゾフは自らを預言者になぞらえていたが、イスラームの教えと矛盾するため国外のムスリムから批判された。 野党への弾圧、言論の自由を規制する(プロテスタントの宣教師を弾圧、オペラやバレエなど西洋芸術を否定するなど)といった、ニヤゾフの独裁的な政治は欧米諸国からの批判を多く受けた。2003年からは最高機関である国民評議会(ハルク・マスラハトイ)議長。 カスピ海沿岸の天然ガスを利用して資源大国化を目論み、主に輸出の5割を超す中華人民共和国とのパイプライン建設などを進めてトルクメニスタンの経済発展を成功させた。ニヤゾフ曰く、天然ガスは「国家の富の源泉」である。対外的には永世中立国(1995年国連総会承認)を宣言し、鎖国的な政策をとっていたが、企業に対しては開放的であった。しかし、企業経済的には未だ不安定である。 2005年の1月には、逢沢一郎外務副大臣と会談し、在トルクメニスタン大使館開設に関して、「日本からは多くの分野で経済協力の推進を期待している」と述べるとともに、「日本の国際連合安全保障理事会常任理事国入りを支持する」と述べた。 また1997年にはドイツで心臓バイパス手術を、2005年には眼の手術を受けており、ニヤゾフ自身の健康問題もクローズアップされていた。ニヤゾフは糖尿病も患っていたとされている。 2005年に近く70歳を迎えるとして、ニヤゾフ自らは候補者とならない大統領選挙を2009年に実施することを発表した(トルクメニスタンの憲法では、大統領は40~70歳までとされている)。すでに憲法を超越する存在であったニヤゾフのこの発表は各国を驚かせた。しかし、すぐに国民評議会は「国父は二人も必要としない」として大統領選挙は不要とした。 そうした中で、2006年12月21日未明にニヤゾフは急死した。トルクメニスタン政府により「心停止による急死」と発表された。66歳だった。ニヤゾフの死によって後継者を巡る混乱が懸念されていたが、ニヤゾフ政権下では副首相を務めたグルバングル・ベルディムハメドフ大統領代行がトルクメニスタンの第2代大統領に就任する事で後継者問題は終息し、その後は脱ニヤゾフ化政策を行った。 ニヤゾフの遺体は現在、キプチャク・モスク(英語版)敷地内にある霊廟に安置されている。
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