クルシウムとの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 14:56 UTC 版)
「ティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌス」の記事における「クルシウムとの戦い」の解説
詳細は「ローマ包囲戦 (紀元前508年)」を参照 紀元前509年、第7代ローマ王タルクィニウス・スペルブスが追放されると、クルシウム王ラルス・ポルセンナはタルクィニウスを復位させるか、あるいは自身が王位につくことでローマを支配しようと考えた。翌紀元前508年、ポルセンナはローマに向けて兵を進めた。ポルセンナはヤニクルムの丘を含むティブル川西岸を占領した。続いてクルシウム軍は、ローマ市内につながる木製のスブリキウス橋(en)へと向かった。これを認めたローマ軍は川の東岸へ撤退し、工兵が橋を落とす作業を開始した。しかし、プブリウス・ホラティウス・コクレス(en)、スプリウス・ラルキウス・ルフスとヘルミニウの3人は西岸に踏みとどまりクルシウム軍と戦った。19世紀初頭の歴史家バルトホルト・ゲオルク・ニーブールはこの3人の象徴的な重要性を指摘している。3人は古代ローマを構成する3つのトリブスの代表者であった。即ち、ホラティウスはラテン人を代表し、ヘルミニウスはサビニ人を、ラルキウスはエトルリア人を代表した。 橋は非常に狭かったため、守備する3人と一度に戦えるのはせいぜい数人であった。伝説によると、3人は橋が破壊される寸前まで戦い、ホラティウスが最後まで残って他の二人を安全に撤退させた。橋が破壊されるのを見届けると、ホラティウスは川に飛び込んだ。その結末は諸説あり、多くの資料ではティブル川を泳ぎ渡ったとするが、ポリュビオスは川の中で死んだとする。 この後クルシウム軍はローマを包囲するが、ヘルミニウスとラルキウスは再び戦いの場に登場する。執政官プブリウス・ウァレリウス・プブリコラが仕掛けた、エトルリアの襲撃部隊を捕虜とするための一連の欺瞞機動に両者とも参加している。
※この「クルシウムとの戦い」の解説は、「ティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌス」の解説の一部です。
「クルシウムとの戦い」を含む「ティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌス」の記事については、「ティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌス」の概要を参照ください。
クルシウムとの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:34 UTC 版)
「スプリウス・ラルキウス・ルフス」の記事における「クルシウムとの戦い」の解説
詳細は「ローマ包囲戦 (紀元前508年)」を参照 紀元前509年、第7代ローマ王タルクィニウス・スペルブスが追放されると、クルシウム王ラルス・ポルセンナはタルクィニウスを復位させるか、あるいは自身が王位につくことでローマを支配しようと考えた。翌紀元前508年、ポルセンナはローマに向けて兵を進めた。ポルセンナはヤニクルムの丘を含むティブル川西岸を占領した。続いてクルシウム軍は、ローマ市内につながる木製のスブリキウス橋(en)へと向かった。これを認めたローマ軍は川の東岸へ撤退し、工兵が橋を落とす作業を開始した。しかし、プブリウス・ホラティウス・コクレス(en)、ティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌスとラルキウスの3人は西岸に踏みとどまりクルシウム軍と戦った。 19世紀初頭の歴史家バルトホルト・ゲオルク・ニーブールはこの3人の象徴的な重要性を指摘している。3人は古代ローマを構成する3つのトリブスの代表者であった。即ち、ホラティウスはラテン人を代表し、ヘルミニウスはサビニ人を、ラルキウスはエトルリア人を代表した。 橋は非常に狭かったため、守備する3人と一度に戦えるのはせいぜい数人であった。伝説によると、3人は橋が破壊される寸前まで戦い、ホラティウスが最後まで残って他の二人を安全に撤退させた。橋が破壊されるのを見届けると、ホラティウスは川に飛び込んだ。その結末は諸説あり、多くの資料ではティブル川を泳ぎ渡ったとするが、ポリュビオスは川の中で死んだとする。 この後クルシウム軍はローマを包囲するが、ラルキウスとヘルミニウスは再び戦いの場に登場する。執政官プブリウス・ウァレリウス・プブリコラが仕掛けた、エトルリアの襲撃部隊を捕虜とするための一連の欺瞞機動に両者とも参加している。
※この「クルシウムとの戦い」の解説は、「スプリウス・ラルキウス・ルフス」の解説の一部です。
「クルシウムとの戦い」を含む「スプリウス・ラルキウス・ルフス」の記事については、「スプリウス・ラルキウス・ルフス」の概要を参照ください。
クルシウムとの戦い(紀元前508年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 15:38 UTC 版)
「ローマ・エトルリア戦争」の記事における「クルシウムとの戦い(紀元前508年)」の解説
詳細は「ローマ包囲戦 (紀元前508年)」を参照 タルクィニウス・スペルブスはタルクィニイとウェイイを使っての権力奪還に失敗したため、翌紀元前508年にはクルシウム(英語版)(現キウージ エトルリア語:Clevsin)王ラルス・プルセナス(ラテン語:ポルセンナ) の支援を求めた。当時のクルシウムは強大なエトルリア都市であった。 ローマ元老院はプルセナスの軍が接近してくることを知り、ローマ市民が恐怖のあまり敵軍を招き入れてしまうことを恐れた。市民の問題を解決して団結を強めようと、元老院はいくつかの策を講じた。例としてはウォルスキ族とクーマエからの穀物輸入、塩の専売制度の導入(塩の値段が高騰していたため)、低所得者の免税、等がある。これらの策は成功し、ローマ市民は団結して敵に向かうことになった。 プルセナスは軍を指揮してローマへの攻撃を開始した。クルシウム軍はローマに通じるティベリス川のスブリキウス橋(英語版)を急襲した。ローマ軍士官の一人であるプブリウス・ホラティウス・コクレス(英語版)は橋を越えてクルシウム軍を押しとどめ、橋を破壊する時間を稼いだ。続いて、ティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌスとが加わった。ヘルミニウスとラルティウスは橋がほぼ破壊された時点で撤退した。ホラティウスは橋が完全に破壊されるまで留まり、敵の弓矢が降りそそぐ中、泳いで川を渡った。後にホラティウスの像がコミティウム(英語版)(公共の広場)に作られ、広大な土地が与えられ、また市民も資財を寄贈した。 強襲が失敗に終わると、次の手段としてプルセナスはローマを封鎖した。ヤニクルムの丘に守備兵を置き、河上交通を遮断し、郊外には襲撃部隊を送った。 包囲戦中に、執政官プブリウス・ウァレリウス・プブリコラはエスクイリーナ門から家畜を追い出して、クルシウム軍にこれを追わせた。ティトゥス・ヘルミニウスはプラエネスティーナ街道沿い、ローマから2マイルの位置で待機するよう命じられた。スプリウス・ラルティウスはコリナ門(英語版)の内側に軍を留め、執政官ティトゥス・ルクレティウス・トリキピティヌスはナエウィア門を守り、ウァレリウス自身はカエリウス丘に出撃した。この罠は成功し、多くのクルシウム兵が戦死した。 包囲戦は継続していた。続いて、元老院の承認を得た一人の若者、ガイウス・ムキウスがプルセナス暗殺のためにエトルリア軍野営地にもぐりこんだ。しかし、ムキウスはプルセナスに近づくことには成功したものの、彼と彼の秘書とを見分けることが出来ず、秘書を殺害してしまった。ムキウスは直ちに捕らえられ、プルセナスの前に引き出された。彼は自分の名前と、暗殺のために来たことを告げた。さらに、暗殺を狙うローマの若者は300人に達し、彼はその最初の一人に過ぎないとプルセナスを脅した。彼は自身の勇気を示すため、エトルリア軍野営地の松明で自身の右手を焼いて見せた。これを見たプルセナスはムキウスの行動に感動し、解放してローマに戻ることを許した。後に彼自身および彼の子孫達はスカエウォラ(左手)のコグノーメン(第三名)を名乗ることとなるが、これは火傷で右手が使えなくなったためである。ムキウスはティベリス川右岸に農地を貰い受けるが、後に「ムキア・プラタ」(ムキウスの牧草地)と呼ばれることとなる。 ほとんどの歴史家が、包囲戦は講和締結で終了したとする。 リウィウスによると、この時点でプルセナスはローマに交渉のための大使を派遣した。交渉が開始されると、プルセナスはタルクィニウスを王位に戻すことを要求したが、ローマはこれを拒否した。しかし、前回の戦争で獲得したウェイイの土地は返却することに合意した。また、ヤニクルムの丘からエトルリア軍が撤退するに当たり、ローマは人質を提供することが合意された。 合意は成立し、人質が渡された。人質の中にクロエリア(英語版)という若い女性がいたが、彼女はローマの乙女達を率いてエトルリア軍から逃れて来た。プルセナスは彼女の返還を求め、ローマはこれに同意した。彼女がエトルリア軍営に戻ると、プルセナスは彼女の勇気に感激し、人質の半分を解放することを許した。クロエリアは、若い少年を解放させることを選んだ。ローマ人はこのクロエリアの行為を誇りとし、ウィア・サクラ(ローマの大通り)の一番高い位置に、馬にまたがった彼女の像を建てた。 リウィウスは彼の時代においても(紀元前1世紀末-1世紀初頭)、ローマで行われるオークションが「プルセナス王の物品を売る」と呼ばれており、これはクルシウムとの戦争に由来すると述べている。リウィウスは、プルセナスが撤退する際に、彼の補給物質を「贈り物」として残していったのであろうと結論している。 リウィウスはまた、この直後に発生したクルシウム・アリシア戦争(英語版)でクルシウムが敗北し、多くの敗残兵がローマに逃げ込んでそのままローマに定着し、そのあたりがウィクス・トゥスクス(英語版)(エトルリア通り)と呼ばれるようになったと述べている。 紀元前507年に、プルセナスは再び元老院に大使を送り、タルクィニウスの復位を要求した。ローマは何人かのレガトゥス(使者)をプルセナスの元に送り、彼の復位をローマが認めることは絶対無く、プルセナスはその決定を尊重すべきと告げさせた。プルセナスはこれに合意し、タルクィニウスに対してクルシウム以外の亡命先を探すように伝えた。プルセナスはまたローマの人質を返還し、また先の条約でウェイイに返還させた土地もローマに戻した。 古代のローマ人は、この包囲戦は実際に発生したのものであると信じていたが、現在の歴史家は少なくともその一部は神話であると考えている。
※この「クルシウムとの戦い(紀元前508年)」の解説は、「ローマ・エトルリア戦争」の解説の一部です。
「クルシウムとの戦い(紀元前508年)」を含む「ローマ・エトルリア戦争」の記事については、「ローマ・エトルリア戦争」の概要を参照ください。
- クルシウムとの戦いのページへのリンク