キャスティングおよびオーディション
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「王様と私 (ミュージカル)」の記事における「キャスティングおよびオーディション」の解説
ローレンス演じるアンナ役に対し、王様役は助演となるが、ハマースタインとロジャースは王様役は著名な舞台俳優であることが必須と考えていた。映画で王様役を演じたレックス・ハリソンがすぐに思い浮かんだが、ノエル・カワードの作品に出演することになっていた。『オクラホマ!』カーリー役オリジナル・キャストのアルフレッド・ドレイクは出演料が高額であった。リハーサルまで期間があまりなく、王様役の配役が大問題となっていた。『南太平洋』ネリー役オリジナル・キャストのメアリー・マーティンは、中国を舞台にした1946年のミュージカル『Lute Song 』(原作は『琵琶記』)で共演したロシア系アメリカ人ユル・ブリンナーを提案した、ロジャースはブリンナーのオーディションについて以下のように語った: 最初の俳優の名が紹介され、坊主頭の男が入ってきて舞台上で足を組んで座った。彼はギターを持って一鳴らしし、物凄い叫び声で異教徒風に歌った。オスカーと私は顔を見合わせ言った。「これだ」。 ロジャースはブリンナーを「とても美しいが、とても変わっている」と称した。ブリンナーはCBSの『Starlight Theatre 』などでディレクターとして確立しており、舞台に戻りたくはなかった。妻、所属事務所、マーティンはハマースタインの脚本を読むよう説得し、一度読んでみると王様のキャラクターに魅了され、プロジェクトに携われることを希望した。とにかくブリンナーの獰猛、気まぐれ、危険、そして驚くほど神経質な王様はローレンスの頑固だが傷付きやすいアンナ役の理想的引き立て役となり、終盤の『Shall We Dance? 』のシーンでは王様がアンナの腰に恐る恐る手をまわすと素晴らしい相性となる。 1950年終盤、リハーサル前最後の準備が始まった。ハマースタインは『南太平洋』同様ローガンに演出および脚本の共著をしてほしかったが断られ、自分で全ての脚本を執筆した。ローガンの代わりにロジャースとハマースタインは、数年前にローレンスと仕事をしたことのあるジョン・ヴァン・ドルテンを演出に雇った。衣裳デザインのシャラフはメディアに「第1幕フィナーレはローレンス、ブリンナー、そしてピンクのサテンの夜会服を特徴とする」と書かれ、ヴィクトリア朝イギリス人ガヴァネスの衣裳を誤解しているとして立腹した。Mielziner の装置プランはメインの王座のほか、船やアンナの部屋など幕前を多用し、『アンクル・トムの小屋』のために舞台上を広くあけ、これまでロジャース&ハマースタインと組んだ4作品中最もシンプルなものとなった。 予算は当時ロジャース&ハマースタインのプロダクションで最高額の$250,000 (現代の貨幣価値でUS$2,410,000)となり、高額予算の失敗作『Allegro 』を越えると嘲る者もいた。投資者はハマースタイン、ロジャース、ローガン、マーティン、ビリー・ローズ、ヘイワードなどであった。王子、王女などの子役はプエルトリコやイタリアなど人種は様々であったがタイ人はいなかった。ジョニー・スチュワートはラーマ5世に配役されたが、開幕3か月で降板し、ロニー・リーに交代した。サンディ・ケネディがルイス役、ブロードウェイのベテラン俳優ラリー・ダグラスがルン・タ役に配役された。 1951年1月、リハーサル開始直前、ロジャースはタプティム役のドレッタ・モロウにローレンスのソロ曲を含むローレンスの歌唱箇所を歌わせた。ローレンスは冷静に聞いていたが、歌唱力不足を指摘されたのだと考え、翌日ロジャースを冷たくあしらった。ハマースタインとロジャースはローレンスが力ずくの演技によって柔軟に演じることができるのか疑問であった。『コリアズ』誌の作家のジェイムズ・ポリングがリハーサルに参加し、ローレンスの『Shall I Tell You What I Think of You? 』に関して以下のように記した: ローレンスは練習のためズボンの上にモスリンのサック・バック・ガウン、そして寒さ対策のため肩にジャケットを掛け、舞台の中央に立っていた。ローレンスは抑えた感じで「召使い、召使いって。私はあなたの召使いではありません」と台詞を言った。その後ローレンスは徐々にゆっくりではあるが力強くクレッシェンドのようにそのシーンを演じて行き、床にかがみ、激怒しつつ進み出て叫んだ。「嫌な人たち。あなたたちみんな嫌なやつだわ」。この直後、劇場の多数のスタッフたちが拍手喝采した。 ボリングがシャラフおよび坊主頭のブリンナーと初めて会った際、その髪をどうしたのか尋ねると、剃ったのだと答えた。当初ブリンナーはその髪型を似合わないと嫌がり断っていた。しかし試験興行の際、ついに頭を剃って顔と同じ暗い色の舞台化粧を頭にも施した。この髪型はとても好評で、ブリンナーのトレードマークとなった。 ローレンスはリハーサルを時々病欠していたが、誰も真実を知らなかった。1951年2月27日、コネチカット州ニューヘイブンにて試験興行が開幕し、上演時間は4時間にもおよんだ。喉頭炎を患っていたローレンスは、衣裳を着用して行なうドレス・リハーサルに参加できなかったが、試験興行初演がローレンスにとってのドレス・リハーサルとなった。『バラエティ』誌の批評家は、ローレンスは病気を患っていたにも関わらず「所作、演技、動き、表現が非常に素晴らしく、様々な面で観客を楽しませた」と記したが、『フィラデルフィア・ブレティン』紙は「加齢によりすでにか細くなった声は全てを薄っぺらくしている」と記した。リーランド・ヘイワードは鑑賞後、ロジャースに早期閉幕をアドバイスしショックを与えた。ニューヘイブン公演を終え、ボストンでのさらなる試験興行が控えていたが少なくとも45分間カットしなくてはならなかった。ダンサーの1人であったゲムゼ・ド・ラペはカットについて以下のように語った: 彼らは素晴らしいシーンをカットした。アンナが最初に宮殿に入ってくる時「半年以上待っていた。あなたのドアの外で待って待って待ち続けた」と歌う。最後に傘で彼を指さすか何かして、王様は「彼女を打ち首にしろ」というようなことを言い、宦官たちが彼女を連れて出て行く。王様は大満足して「あれは誰だ、誰なんだ」と言い、自分が追い出したのは英語教師だったと知る。それで「連れ戻せ」と言ってアンナは戻ってくる。私たちは皆このシーンが好きだった。 この『Waiting 』という曲はアンナ、王様、クララホム首相のトリオ曲であった。クララホム首相の唯一のソロ曲『Who Would Refuse? 』もカットされた。歌う箇所のなくなったマーヴィン・ヴァイが降板し、代わりにジョン・ジュリアノが配役された。ドロシー・サーノフがオリジナル・キャストとなったチャン王妃の曲『Now You Leave 』もカットとなった。これらのカットの後、ロジャース&ハマースタインは第1幕は何かが欠けているような気がしていた。ローレンスはアンナと子供たちの歌の作曲を提案した。メアリー・マーティンは『南太平洋』でカットとなった曲『Suddenly Lucky 』を思い出させた。ハマースタインはこのメロディに新たな歌詞をのせ、題名を『Getting to Know You 』と改め使用することになった。『Western People Funny 』、『I Have Dreamed 』もボストン公演で追加された。 ブリンナーは複雑な王様の役を発展させるのに充分な時間がなかったと感じ、試験興行がもっと上演されればよかったと語った。しかしブリンナーがハマースタインとロジャースと話した時、彼らがどれくらいの期間が必要かと尋ねると、ブリンナーは「これで充分だろう。きっと好評だ」と答えていたのである。
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