キャスティングなど
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1996年の『霧の子午線』で、吉永が那須真知子のさっぱりした性格と気が合っていたことから、那須に脚本を頼み、2003年の年明けに脚本の第一稿ができて、吉永に読んでもらっところ吉永は出演を即決した。吉永が「監督は誰ですか」と聞いたため、「誰かご意向がありますか」と聞くと、吉永は「最近の映画を見て、行定勲さんはどうですか。若手と一回やってみたい」と言った。行定はまだ『世界の中心で、愛をさけぶ』撮影前で、吉永は行定の『GO』や『ロックンロールミシン』に感心し、「新人女優になった気持ちで、『GO』のヒロイン・柴咲コウさんになったつもりでやってみたい」と希望を伝えた。そこで岡田が行定に引き受けてもらえるかと頼むと、行定は「私が吉永さんを本当に撮らせてもらえるんですか。本当にご指名なんですか。私が断れる理由がないじゃないですか」と了承した。行定は監督昇進後、次々話題作を手掛け、日の出の勢いだったが、当時の日本映画の状況で、30代前半の監督が製作費15億円の大作を監督するのは珍しいケースであった。行定は「つい数年前までこんな大作を若いときに撮れるなんて思いもしなかった」と話した。 吉永は1980年に高倉健と共演した『動乱』で、北海道の魅力に惹かれ『動乱』同様、北海道での長期に渡る撮影に意欲を見せた。岡田から送られた脚本の初稿を読んだのち、赤坂プリンスホテルへ打ち合わせに行くと岡田とともに吉永が同席していたことに行定は驚いた。彼女から『ロックンロールミシン』を観たことで自然を味方にできないとこの映画は作れないからあなたなら味方にできると言わたことで指名を改めて快諾した。吉永主演と行定監督、那須脚本が決まっただけの段階で、坂本が嬉しさのあまり、札幌シネマフロンティアのグランドオープン前日の2003年3月5日、同所で坂本と吉永、中田夕張市長ら少数の出席による企画発表会見を行った。坂本は「北海道全体で作る気持ちで、個人、法人を含めて賛同者を募り、物心両面で協力したい」と話し、中田夕張市長は「1991年の第2回ゆうばり国際映画祭にゲストとして吉永さんを招こうとしたら断られたんです。13年経って、今度はロケという形で来て頂けることになり夢のようだ」と話した。吉永は「船山馨さんが書かれた『お登勢』や『石狩平野』のような、北海道の大地にしっかり足をつけて生きる女性をいつか演じたいと思っていた。今回は腹筋を使っての体力勝負。若くて才能のある行定監督との初めての仕事にわくわくしています。新しい演出法に触れて、今までと少し違う私が出せれば…」と抱負を語った。また、行定からは「日本史の授業では習わないような北海道の知られざる歴史がある。その歴史の中から偉大なる女優、吉永小百合さんとともに今の日本人が忘れかけている真実を探し出していきたいと思う。現代人の心に残る映画を目指したい」というメッセージが寄せられた。この時の発表では2003年秋に撮影を始める予定と発表したが、出演者のスケジュール調整、ロケセットの建設等が大規模で準備に難航し撮影は2004年2月からになった。坂本の呼びかけで、堀達也北海道知事を代表幹事とする吉永の111本目の出演映画に因む、道内経済界、行政、各種団体トップによる前代未聞の111人の「映画『北の零年』を応援する会」が結成された。正式な製作発表会見は一年後の2004年2月9日に赤坂プリンスホテルで行われた。岡田は会見で「二十年前からこの映画の構想をあたためていた。ただ、スケールの大きな話であるために、製作費が多額だし、ロケも大変なので実現までに時間がかかった。東映の来年の社運をかけて、立派な作品を世に送り出したい」と抱負を語った。 また渡辺謙はオファーを出す前に渡辺の方から『ラストサムライ』撮影中に「吉永さんがやるようなら、何が何でも参加させてくれ。通行人でもいいから出させてくれ」と岡田に電話があった。渡辺はまだ大きな名声を得る前だった。
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