キャスティング&撮影
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「好色元禄(秘)物語」の記事における「キャスティング&撮影」の解説
最初は当時売出しだったピラニア軍団の紅一点・橘麻紀のための企画で、主演の姉、お夏役は橘、妹のお七がひし美ゆり子だったが、監督の関本が『ポルノ時代劇 忘八武士道』(1973年)のひし美を見て「いいオッパイをしてるな。ブリジット・バルドーみたいにオッパイの位置が高い」とひし美のカラダに惚れ、主役を入れ替えた。関本はひし美がテレビで人気があったことを知らなかった。関本はピラニア軍団が大監督と組むことに不満があり、「本来なら俺達のようなたたき上げと組むのがピラニアの精神だろ」とあまりピラニア軍団は好きでなかった。主役の変更にピラニア軍団が怒り、数人が関本のところに来て「橘をタイトルのトップに出せ」と迫ったが、「主演を決めるのは監督とプロデューサーの仕事で、おのれらの出る幕じゃないわい。すっこんどれッ!!」と大喧嘩し、これを切っ掛けにピラニア軍団と親しくなったと話している。 関本は「ひし美は芝居が上手くないから徹底的に鍛えた。お夏はひし美にぴったりの役だった。踏まれても蹴られても雑草のように生き抜くバイタリティ。彼女はそれを実にさわやかに演じてくれた。ひし美は『好色元禄㊙物語』に出るまで、カワイコちゃん女優で、それなりに売り出してはいたが、それなりに、それどまりだった」などと述べている。ひし美は1966年に東宝入社し、多くの映画に出演した後、1967年から1968年にかけてTBSで放送された『ウルトラセブン』のアンヌ隊員役で子供たちの人気を集めた。しかし1972年に東宝との専属契約が切れると自信を失い、女優は辞めるつもりでいた。個人的な記念のつもりで撮ったヌードが『週刊プレイボーイ』に流出し、それがひし美に無断で掲載された途端、各映画会社のプロデューサーから自宅へジャンジャン電話がかかり、出演オファーが殺到した。女優は辞めるつもりでいたためマネージャーもおらず、あまり考えずに最初に連絡があった『不良番長』のプロデューサーで、岡田東映社長の懐刀吉田達東映プロデューサーの誘いを承諾した。しかし吉田の誘いの直後、ATGから、監督新藤兼人で谷崎潤一郎原作『春琴抄』の主役オファーがあり、「女優なら選択の余地はない。女優なら誰だって『春琴抄』を選ぶ。『不良番長』に出演したら文芸作品に出演するチャンスは二度と来ない」と思い、吉田に断りの電話を入れたが聞き入れられず、「出演依頼をしたのはウチが先。そんな不義理をすると芸能界は渡っていけないゾ!」と脅かされて、「分かりました。じゃあ、やります」と渋々『不良番長 一網打尽』に出演した。それまで健康的なマニッシュイメージだったひし美は、ここを起点としてセクシーな裸を武器に性的アイコンを持ったヴァンプ女優に変貌していく。『新仁義なき戦い 組長の首』など、東映のプログラムピクチャーを中心にふんだんにヌードを披露し、お色気路線を突き進んだ。ひし美は「もし『春琴抄』が実現していたらその後の道も変わってたんでしょうね。たった一人で運命に翻弄されてしまった」と述べている。 本作のオファーも成人映画でひし美は最初は断った。しかし断っても断っても関本監督から熱心に口説かれ、その熱意に負け、初めての主演映画でもあるし、やってみようと思い直した。またタイトルは最初は『好色一代女』で、ひし美もそのタイトルならと引き受けた。「しかし『好色元禄㊙物語』では、そのタイトルで名作劇場などでテレビ放映されると家族にも見せられないし本当に困る。映画だから脱いだのに、このタイトル変更には怒りを覚える。肖像権を主張して放映中止の権利を持ちたい」などと話している。 田中陽造のシナリオが完成し、いよいよクランクインしようとした時、岡田社長が「窪園千枝子を使え!」と無理難題を言ってきた。窪園は昨今のAV界では珍しくないが「セックスのクライマックスで一升、一斗の潮を吹く名器が自慢」とテレビや雑誌で堂々とアピールし、セックス評論家を自称。この年マスメディアを賑わし、五月みどりとともにピンク旋風を起こしたと評され、映画公開後に「しおふき小唄」というレコードまで出した。岡田社長からの窪園ゴリ押しは、当時東映で窪園の自伝ポルノ映画を製作予定だったことによる。予定していたタイトルは『潮吹きマダム・愛の遍歴』であった。当時は猥褻表現を巡って起きた日活ロマンポルノ事件もまだ裁判中で、実際の潮吹きを撮影できるわけもなく、岡田社長は「窪園を使わないなら映画は作らせない」とまで言うのでやむを得ず出演してもらい、潮吹きをパロディーとして描くことにした。窪園は撮影当日脱がないとゴネたが、ビールを飲ませると途端に上機嫌になり、1本目で片方を2本目で両方のオッパイを出し大量に潮(?)を吹いた。このシーンはいらないという見方もあるが、当時の観客には非常に受けたという。 本作撮影中に同時上映になった『神戸国際ギャング』の撮影が京都撮影所で始まり、オールスター・キャストの大デモンストレーションで、本作はスミの方で撮影した。監督は日活から招かれた田中登。関本は「撮る作品が逆なんじゃないかな」と思いつつ、「これは負けちゃならん」と強烈な対抗精神を持ち撮影に挑んだ。出来上がったシャシンを観て「俺は勝った」と思ったという。
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