ガス発生炉搭載車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:46 UTC 版)
ガス発生炉搭載車は、車両に搭載したガス発生炉(代燃炉)で木炭や薪等を不完全燃焼させ、発生した一酸化炭素を主成分とするガスを燃料にガソリンエンジンを回して走行する(木炭自動車の項目も参照)。 内燃機関を車載ガス発生炉で駆動する着想は19世紀末からあったが、本格的な開発は第一次世界大戦直後、1918年頃のフランスで自動車用として始まり、日本でも1920年代以降、陸軍の技術将校や学者、民間技術者などが、やはり自動車用として実用化研究に着手していた。そして第二次世界大戦中から戦後間もない時期には、欧州大陸や日本などで既存ガソリン自動車の代替燃料確保手段として広く用いられた。 ガス発生炉は、気動車分野でも早くから採用が試みられていた。日本の気動車で初めて木炭ガス発生炉を装備したのは1934年の流山鉄道キハ32(1934年汽車製造会社東京支店製の半鋼製2軸車)であるが、ガス発生炉がまともに実用にならず失敗に終わっている。代燃車が気動車の分野において普及したのは、石油供給事情の悪化がきわめて深刻となった1940年頃からで、政府からの奨励や燃料統制もあり、多くのガソリンカーが車端部等にガス発生装置を後付けした。 代燃炉の設置場所は、車外に露出している方が日常整備や発熱、ガス漏れ対策で有利であり、私鉄では荷台を利用するなどして車体妻面外部に設置した例が多い。外部荷台がない車両の場合は、代燃炉と支障する連結器取付部につき、台枠端梁から鋼材で連結器支持部を延長することで、端梁前面左右にスペースを確保した。省(国鉄)や一部の私鉄は車内床上(通常、片側の運転台横)に搭載し、客室とは仕切り板で区切って、代燃炉スペースを確保した。希少例として五戸鉄道では床下に設置している。 ガス発生装置のメーカーは中小零細企業が多く、多種類の製品が存在し、私鉄の工場現場で独自に製作した事例もあり、搭載気動車の構造にも左右されて、その搭載形態は多種多様であった。だが固形燃料であるため、ガス発生後は「クリンカー」と呼ばれる固化した燃えカスが炉内に残り、保守担当者が日々その除去作業を強いられることは共通であった。また常時高熱にさらされるガス発生炉はそれ自体の痛みも早く、炉の実用寿命は1~2年程度であった。 これらのガス発生炉利用のガソリンカーは、カロリー不足で本来のガソリン使用時よりも大幅な出力低下を余儀なくされ、ガソリンであれば登り切れる勾配も、代用燃料では出力不足で立ち往生するような事態が生じた。またガスに混じったタールなどの不純物を除去しきれないため、エンジンが摩耗・損傷しやすく、エンジンの頻繁な分解修理を強いられた。 1930年代には電気モーターによるセルフスターター装置が自動車用・大型定置ガソリンエンジンに広く普及しており、単端式以外の床下機関式内燃動車では、始動用手動クランクのエンジン連結が構造的に難しいこともあってセルフスターター始動は一般化していたが、薪炭ガス燃料ではエンジンの始動性も非常に悪く、乗務員・整備員を苦労させた。対策として、始動時だけは僅かに供給される配給ガソリンを使い、始動したら薪炭ガスに配管を切り替える事例や、他の気動車・蒸気機関車による「押しがけ、牽きがけ」で車輪から大きな駆動力を与えて始動させる事例が多く見られた。 始動用燃料として極めて貴重な配給ガソリンや、代燃化しても消費を避けられない潤滑油の配給枠を確保するため、使用に堪えず休車したり客車代用となった老朽ガソリンカーについても名目は自走稼働している扱いとして当局を誤魔化す私鉄も少なからずあった。 ガス発生源となる燃料は、主力となった木炭や薪など木質燃料のほか、中国産無煙炭や、コーライト(半成コークス)などが用いられている。国鉄では蒸気機関車のボイラーから回収されるシンダ(石炭の燃えかす)を気動車のガス発生燃料に用いる試みも行われ、100両前後のガソリンカーが改造されたとの記録が残っている。が、いずれも燃料となるガスの主成分が有毒な一酸化炭素で、保守担当者が車庫での整備中に漏洩ガスが原因で中毒死する事故が起こるなど、燃焼効率や出力以外の部分にも問題が多かった。 なお、ガス発生炉式に改造された国鉄気動車については、ガソリンカー時代から特段の改形式・改番は行われていない。
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