「東京ディズニーランド」の実現のために
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 16:04 UTC 版)
「高橋政知」の記事における「「東京ディズニーランド」の実現のために」の解説
高橋の必死の交渉が実り、浦安沖の漁業補償は無事に決着した。川崎の命を受けた高橋は、早速千葉県に掛け合い、埋め立て後の遊園地用地約330万m2の払い下げを申し込んだ。ところが、当時の千葉県知事であった友納武人は驚き、「ディズニーランド」でさえ約83万m2なのだからといって納得しなかった。困った高橋は、なんとか約250万m2の土地を払い下げてもらうということで知事を説得し、話をつけた。ところが、それを知った川崎はひどく不機嫌なのである。川崎は、高度経済成長による所得の向上でレジャー施設の人気が高まってきたことに備えて、その周辺にホテルなどの宿泊施設を建設したいと考えていたのだ。 結局、オリエンタルランドは県の依頼を受け、商業地も含めた約380万m2の土地を払い下げてもらうことが決まった。実は、当初県は埋立地のうち約130万m2を住宅地として売り出す予定だったのだが、「埋立地で地盤が悪い」との前評判が立ってしまい、買い手がつかなかった。泣く泣くオリエンタルランドにその分の土地を購入してもらうよう求めてきたのである。 埋立地の払い下げにも見通しがたった後、高橋が直面したのは、資金の手当てだった。当時のオリエンタルランドは名ばかりの弱小企業であったことに加え、土地がまだ出来上がっておらず、担保も無かったことから、どの銀行も融資には難色を示した。そこで、埋め立て工事を県から委託してもらい、完成した土地を担保にして資金を借りようと考えた。 この請願を千葉県議会に提出したところ、承認をもらうことができたが、県庁の担当者が首を縦に振ろうとしないため、高橋が友納知事に直接交渉に出かけることとなったが、この交渉は決裂した。前例がないことを理由に頑なに拒否する知事に対して、高橋は知事を怒鳴りつけ、知事室を立ち去った。高橋の気の強さを象徴するような話だが、周囲は困惑した。この状況を見ていた川崎が知事と高橋の間に入り、仲直りの席が設けられることとなった。最初は気まずい空気が流れていたものの、二人が同じ東京帝大法学部の出身で、同じ時期に同じ教授から憲法や民法の指導を受けていたことが分かり、一気に和解することとなったという。 当初、高橋は、自分は「浦安漁民との漁業補償交渉」のために入社したのであって、「交渉が終了した時点でお役御免だ」と考えていたが、状況は一変する。アメリカ国外では史上初となるディズニーパークが「千葉県東葛飾郡浦安町」に建設されることが正式に決定すると、ディズニー社との交渉が開始されることとなった。しかし、1961年に奈良県で開園した奈良ドリームランドがディズニーランドを模倣したとされ、権利関係にはかなり厳しいと言われるディズニー社内では日本側に対する不信感が高まっていたこともあり、同社との交渉は一筋縄では行かず、川崎はかなりイライラしていた。そんな中、オイルショックの煽りや京成電鉄が乗り入れを予定していた成田空港が地元住民による反対運動で開港が延期になった影響を受け、親会社である京成の経営が傾き始め、融資していた銀行団から圧力がかかった。 本業である鉄道事業へ専念するよう銀行団から求められた川崎は、オリエンタルランドの社長を降りざるをえなかった。高橋は川崎のかわりに社長に就いたが、決して順風満帆のスタートではなかった。 準備作業は少しずつ進められていった。1977年3月には正式名称が「東京ディズニーランド」に決定、同年7月にはパーク内施設の協力企業(スポンサー)誘致活動が開始される。 ディズニー社との交渉は何度も決裂寸前の様相を呈し、一時は修復も危ぶまれる状況に陥っていた。そんな状況を持ち直したのが高橋である。高橋自身は川崎に比べ、ディズニーランドへの思い入れはそれほど深くなかった。ディズニーランドの日本への誘致について、熱く語る川崎を見た高橋は、イメージが湧かず、本気かどうか疑ったそうである。あくまでも自分の仕事は埋め立て事業を成功させることであって、ディズニーランドは自分の仕事ではないという気持ちの方が強かった。だが、埋め立て事業に携わる中で、浦安のこの土地に愛着を持ち、浦安のこの土地に国民の幸福に寄与するものを作りたいという思いが強くなっていった。だからこそ、反対勢力には猛烈に反抗し、「事業家としてやるべきことはやる」という意地もあった。ディズニー社の人間から、「日本人は優柔不断だ」と思われることにも我慢がならなかった。 その後、ディズニー社とオリエンタルランドとの間で基本契約を取り交わしたのは、1979年4月30日のことである。ディズニー社の首脳が来日してから、すでに4年5か月が経過していた。そのときの様子を写した写真には、握手を交わす高橋とカードン・ウォーカー社長(ディズニー社・当時)の間にミッキーマウスの姿があった。 東京ディズニーランドの建設工事は、基本契約締結から1年半が経過した、1980年12月に着工を迎えた。当初1,000億円を予定していた総事業費は、なんと1,800億円まで膨れ上がっていった。しかし、高橋は、金に糸目はつけず「本物」を造るよう、担当スタッフを鼓舞激励した。結果から見れば、これはテーマパーク成功に必要な経営者の姿勢でもあった。目先の工事費を惜しんでも、出来上がるのは貧弱なものに他ならない。高橋はその点をよく心得ていた。もちろん、建設費は膨らんでいき、関係者からの批判も高まっていったが、高橋は一歩も引こうとはしなかった。ディズニー社から派遣されてきた人間たちが納得し、快く仕事ができるよう、全面的に矢面に立った。その一方で、「ディズニー社の人間」だからといって気を使うことも無く、言いたいことは自らどしどし言う、こういった攻守のバランスがしっかりととられていたことも、ディズニー社との良好な関係を保つことができた理由のひとつだった。 1983年3月には、「東京ディズニーランド竣工式」が執り行われた。そして、4月15日には1万8,000人もの入園客を迎え、「グランドオープニングセレモニー」を開催することとなった。川崎が、1958年1月に「ディズニーランド」というものに出会い、強い感銘を受けて以来25年の歳月が経過していた。当時相談役に就いていた川崎は、長年の夢が叶った喜びを隠すことができず、涙ぐんでいた。それを見た高橋も、感激の面持ちだった。
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