「東京五大新聞」の一角
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1894年(明治27年)に三木善八が社主に就任、同年12月26日「報知新聞」と改題した。1898年には案内広告のはじまりである「職業案内」欄が創設された。報知新聞がこの欄を創設したことの最大の功績は、掲載された校正係募集を見て入社した松岡もと子(後に結婚して羽仁もと子)が日本初の婦人記者となった事であろう。 1901年(明治34年)1月2 - 3日付け紙面では「二十世紀の豫言」を掲載。20世紀中に実現すると予想される23項目の事柄が書かれている。科学技術に関する部分はほとんど実現したが、自然や生物学関係は外れているものが多い。 1903年(明治36年)、紙上で村井弦斎の小説「食道楽」を連載開始、日本にグルメブームをもたらす。同年、新聞直営店制を開始した。 1904年(明治37年)には川上貞奴の写真を掲載、これは日本初の新聞写真であった。1906年(明治39年)には夕刊の発行を開始する。また1906年には日本で初めて2色刷りの新聞印刷を実施した。1913年(大正2年)の第一次護憲運動では政府系と見られて群衆の襲撃を受けた。1916年12月15日内閣交代を批判した社説「元老の宮中闖入」を掲載し、新聞紙法違反で発禁、告発された(主筆須崎芳三郎ほか1人、禁固3か月)。 1920年(大正9年)には現在も続く東京箱根間往復大学駅伝競走を創設した。 明治末から大正にかけて東京で最も売れた新聞で、東京五大新聞(東京日日・時事・國民・東京朝日・報知)の一角を占めた。 1923年(大正12年)の関東大震災では社屋の焼失を免れたものの、その後は大阪を基盤に置く東京朝日や大阪毎日の傘下となった東京日日の台頭によって部数を減らすことになる。
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