「東京医学校」時代
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明治5年(1872年)の学制頒布により、8月3日(新暦9月5日)、東校は「第一大学区医学校」となり、ついで1874年(明治7年)5月、東京医学校と改称された。この東京医学校は予科2年、本科5年からなり、主としてドイツ語を通じて西洋医学教育が行われたが、同年、日本語による薬剤師の簡易速成課程として修業年限2年の「製薬学(通学生)教場」、翌1875年には医師速成課程として修業年限3年の「医学通学生教場」が新設され、ともに日本語による授業が行われた。慶應義塾出身の印東玄得らが教授として着任した。1876年には初めて25名の卒業生を出し、翌1877年4月、東京医学校は東京開成学校(大学南校の後身)と統合され東京大学((旧)東京大学)の設立に至る。しかし設立当初の東京大学は旧開成学校および医学校の連合体としての性格が強く、しばらくの間、医学校の後身たる医学部では独自の「綜理」(大学総長に相当し池田謙斎が就任)を持つなど、高度な独立性を維持していた。
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