「愛知者」と「他の人々」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 14:09 UTC 版)
「テアイテトス (対話篇)」の記事における「「愛知者」と「他の人々」」の解説
ソクラテスは、他の機会にも気づいたことだし、今も感じていることとして、「「知恵の探求(愛知)」に多くの時間をかけた人間」が、「法廷で笑い者になる」のは当然だと指摘する。 というのも、「若い頃から法廷の類のような場所で過ごしているような者」と、「若い頃から「知恵の探求(愛知)」の類に時間を費やすよう育てられてきた者」の関係は、「家来」と「自由民」の関係と似たようなものであり、後者の「知恵の探求者(愛知者)」は、時間を気にせず、平和に悠々と言論を行い、ただ「真実」のみを求めて進んでいくが、前者の人々は、常に「時間の制限」(法廷の水時計)に急き立てられ、「せわしない言論」を行い、しかもあらかじめ提出されている「アントーモシアー」(宣誓口述書)という弁論要領書に合致したものでないといけないよう内容が制限されているし、裁判官という「主人」に対して同じ「奴隷仲間」を云々するような言論が、「自分自身」を中心に行われると、ソクラテスは指摘する。 そしてその結果、前者の人々は、緊張・鋭敏さと共に、「主人にこびへつらい、気に入られる言論・行動」についての熟練も身につけるが、それによって精神は矮小・不正直となるのであり、こうした若い頃からの「奴隷の境遇」は、その者から「直」や「自由闊達」を奪い、必然的に「曲がったこと」をさせるようになり、「成長後の大成」を不可能にしてしまうのであり、彼らはただひたすら「虚偽」「不正の仕合い」に向かい、幾度も「捻じ曲げられ」たり「折りくじかれ」たりして、「不健全な了見」を持つ大人になってしまうし、挙げ句にはそれが「知恵者」「一目置かれる人物」になった状態であると思ってしまう始末であると、ソクラテスは指揮する。 それに対して、「知恵の探求」に従事している真正の「愛知者」たちは、若い頃から、 アゴラへの道も知らず、裁判所や議会、その他の国家公共の会議所の所在も知らず、 法律や決議の言論を聴くことも読むこともなく、 権勢のために徒労を組んで政治運動したり、集会・宴会を催したり、芸妓を侍らせて騒ぐこともなく、 「生まれの善し悪し」「父方・母方から受け継ぐ汚点」だとかにも興味を持たず、 これらを「価値が少ないもの」「まるで無いかのようなもの」と考え、 地面に幾何を研究し、天上に星度を推考し、「万物」の「全体」としての性質をあらゆる方面に探求し、 (天上を眺め星度推考しながら足元の穴に落ち、トラケー(トラキア)の女召使に皮肉を言われたタレースのように)卑近なものには親しむことをせず、近隣の者が「何をしている」のか、それどころか「人間であるか」どうかすら関心無く過ごしているし、熱心に探求しているのはむしろ「人間とは何であるか」という「本性」であったり、「作用・受用における区別」だったりする。 と、ソクラテスは指摘する。テオドロスも同意する。 したがって、こうした真正の「愛知者」は、私的な交わりにおいても、裁判所などで公に言論を交えなければならない場合においても、 「無経験」ゆえに穴に落ちたり、行き詰まったりするような醜態を演じ、かのトラケー女のみならず、大衆にも嘲笑われるようになる。「人の悪いところ」に無関心なため、「人を誹謗する」「人の痛いところを突く」ということが少しもできず、「行き詰まっている嘲うべき者」に見える。 その「不格好さ」は、「底抜けの馬鹿」を思わせる。人が何かを「讃美」したり「自慢」したりするのを、(わざとではなく)本心からおかしがっているので、「馬鹿」だと思われる。「王侯の位にある者」が「結構な身分」であると称賛されるのを聞かされる場合、彼にはそれが「「豚飼い/羊飼い/牛飼い」の牧童の一人が、たくさん搾取できるから「幸福な身分」である」と言われているように感じる。また実際、「王侯の位にある者」は、時間に余裕を持つことがなく、必然的に「野卑」となり、また「教養を欠く者」となるため、なおさら牧童にそっくりだと感じる。 ある者が「広大な土地」を所有していると聞かされる場合、彼は常日頃「この世界の土地全体」を眺めつけているので、それを「極小の土地」のように感じる。 ある者が「裕福な祖先」を7名挙げることができるので「立派な家柄」であると聞かされる場合、そのような讃美は、「鈍い視力/狭い視野」しか持っていない者がすることだと考える。そうした者は、「無教養」で「全体を見る」ことができないため、「誰の祖先だって無数に多くおり、その中には富者も、乞食も、王も、奴隷も、ギリシア人も、異邦人も当然、数多くいる」という当たり前のことを、思量できていないと考える。 「祖先25代の目録」を自慢し、血統をアンピトリュオンの子ヘラクレスまで持って行ったりする者も、たとえそこから更に25代/50代遡ろうとも、他の人々と同じく、その時代に生きた者がただそこにあるだけであり、「家系の長さ・血統」など意味が無いということを思量できていないし、「空虚な誇り」を捨てられないでいると考える。 といったような者になると、ソクラテスは指摘する。テオドロスも同意する。 他方で逆に、そんな真正の「愛知者」が、誰かを高みに引っ張り上げようとし、その誰かが、 「不正」を罵り合ういざこざを止め、「正・不正」とは何であるか、その相違・区別などを考察する場合 「地位/財産」に対する夢想を止め、「王位」や「幸・不幸」が何であり、どのようにするのが人間の本性にかなうことなのかなどを調べる気になった場合 には、それが先のような「精神が矮小な者」だと、今度は逆にその彼が「お返し」されることになり、 高みに釣り上げられて、目を回したり、 地上をはるか離れたところで、上空から目を放って、不慣れのためにまごまごしたり、行き詰まりを演じたり、とんちんかんなことをやったり、 することになるし、かのトラケーの女も含む無教育な連中はそれが理解できないので、嘲うことはないが、「愛知者」の人々には笑いものになると、ソクラテスは指摘する。 こうしてソクラテスは、「二種類の者」の流儀を話したことになり、一方の「好学愛知」の人々は、「自由」と「時間の余裕」を持って育てられた者であり、「夜具の荷ごしらえ」「おかずの作り方」「お世辞の言い方」といった「奴隷奉公の仕事」に関して、のろま・無能と思われても落ち度にはならないが、他方の人々においては、それらを万事如才なくきちんとやるが、「自由人の作法通りに衣服をまとう」とか、「(「神々」や「浄福な者」が送る)「真の生」を賛美する心得」を知らないと指摘する。
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