「愛知」と「神」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 14:09 UTC 版)
「テアイテトス (対話篇)」の記事における「「愛知」と「神」」の解説
テオドロスはソクラテスに同意しつつ、ソクラテスが全ての人にそうしたことを言い聞かせてくれれば、人間社会はもっと平和になり、劣等なもの悪しきものももっと少なくなるだろうにと指摘する。 それに対してソクラテスは、 いつも「優れた善いもの」には、それの「反対のもの」がなくてはならない。 「悪くて劣ったもの」が、「神々の間」に居場所を持つわけにもいかない。 ので、その「悪くて劣ったもの」が、「我々の住むこの場所」を取り巻いて、「限りのある生を持つ種族」(人間)について回るのは、必然だと返答する。 さらにソクラテスは、 だから、できるだけ早く「この世」から「あの世」へと、逃げて行かなければならないし、 その「世を逃れる」とは、できるだけ「神に似る」ことであり、 その「神の真似人」は、「思慮ある人」となり、人に対しては「正」、神に対しては「義」ある者となる。 と指摘する。 またソクラテスは、「なぜ人は、自身を「劣った悪いもの」にしてはならず、「優れた善いもの」にするよう努力しなければならないのか」という問いに対して、多数の人々が語るような「人に悪い奴だと思われず、善い立派な人と思われるため」といった理由は、まるで「老人たちのたわいもないおしゃべり」のようないい加減で的外れなものであって、真の理由は、 「神なるもの」は不正が無く、可能な限り最も正なるものなのであり、「神に似る」ということの最上は、「できるかぎり正しくする」より他に無いから なのであり、「男である」とか「男でない/無能」といった表現も、こうした「正」の性質を表すためのものであること、そしてこの「正」を知ることが「知恵」であり、また真に「優れた善い人」であるということであり、逆にこれを知らないことが「無知」であり、「劣悪」となる所以なのだと指摘する。 さらに、そうであるのにも関わらず、「劣悪な政治的権勢」や「手先だけの低級な技術」などに関するものが「知恵」などと思われていたり、「不正な行い」をする者が「侮れない恐るべき者」などと呼ばれ彼らを得意気にしているのだから、そうしたことはやめなければならないし、 彼らは自分を「無知/無能」だとは思っていないが、むしろそれゆえにかえってますます「無知/無能」なのだということ。 真の「不正の刑罰」とは、(時に免れることも可能な)「鞭打ち」「死刑」などではなく、「最大幸福の模範」たる「神」から遠ざかり、「不幸な生」を送らねばならないし、死後も「清浄なあの世」は受け入れてくれないので、「不浄なこの世」に留まり続けなければならないという、「決して免れない報い」なのだということ。 を、指摘してやらねばならないが、そう言われても彼らの多くは、それを「痴人の妄言」として聞き流すだけだろうと指摘する。テオドロスも同意する。 またソクラテスは、とはいえそんな彼らも、ひとたび「男らしく」逃げもせず、長時間の「言論の受け答え」に踏みとどまる気になったならば、(あたかも「幼児」と何ら異なることが無いというくらい)「自分の不足」を自覚できるようになるし、「弁論術」なんてものはどこかに吹き飛んで姿を消してしまうと指摘する。 そして、ここまで話してようやくソクラテスは、こうした「ついでの話」をしてるとキリが無いし、「元々の議論」が見失われかねないので話を戻そうと提案し、テオドロスも同意する。
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