「シアトル・インディアン・センター」の設立とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 「シアトル・インディアン・センター」の設立の意味・解説 

「シアトル・インディアン・センター」の設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 01:49 UTC 版)

キャサリン・トラウ」の記事における「「シアトル・インディアン・センター」の設立」の解説

こうして設立された「シアトル・インディアン・センター」は、その後拡大し続け保留地失ったインディアンたちが母族文化表現し自己向上する拠り所となったシアトル流れ込む多くインディアンが、真っ先訪れるのがこの「シアトル・インディアン・センター」だった。キャサリンら「AIWSL」のメンバーは、しばしばバス停で彼らの到着歓迎した。 現在「シアトル・インディアン・センター」の所長務めるカミーユ・モンソンはこう語っている。 「この団体における彼女の貢献計り知れません。キャサリン・トラウと、彼女と共に中核をなした女性たちがいなければ私たち今日ここにいないでしょう彼女たち妨害を受けませんでしたあなたは至る所彼女ら働き成果目にすることができるでしょう。」 1961年キャサリンら「AIWSL」はインディアン文化インディアン以外の民族にも知らし交歓する目的で、全米インディアン部族文化行事集めた大集会開催し、これは毎年1000人以上の観衆集め人気行事となり、団体新たな組織作り運営資金もたらしたキャサリンら「AIWSL」は、続いて「シアトル・インディアン健康委員会」、「シアトル・インディアン教育委員会」を設立した。これは生き場所のないインディアン抱えアルコール中毒周辺疾病未就学児童問題受けたもので、センター医師教師ボランティア招き、ここを医療学習拠点したものである。 キャサリンインディアン権利について活動の中で、しばしば州知事上院議員渡り合った。カミーユ・モンソンはキャサリンについてこう述べている。「彼女の声はとても力強く、そして彼女は本当に燃えるような女性だったんです。」 1960年代入ってワシントン州は「動物保護する」として「釣り狩猟法」を制定同州鮭漁生業とする多数インディアン部族から漁業権奪った。、ピュヤラップ族のボブ・サタイアクム、ニスクォーリー族のビリー・フランクJr、チュラリップ族のジャネット・マクラウドらは、運動団体アメリカインディアン生き残りのための協会」(Survival of American Indians Association)を結成し州政府と合衆国対し漁猟生存権確約したインディアン条約再確認するための抗議行動開始ワシントン州は反「釣り狩猟法」を掲げインディアンと州との一大闘争の場となった1964年3月ワシントン州で、インディアンたちが漁業権確認を巡る最大抗議行動フィッシュイン」を一斉決行するキャサリンら「AIWSL」もこの問題取り組み抗議行動支援している。 1970年、「シアトル・インディアン・センター」のボランティアだったバーニー・ホワイトベアー始めとするインディアン抗議団が、ここをインディアン文化拠点とするとして、シアトル南部廃棄され米軍基地占拠キャサリンらはこの占拠団に食料医療支援行い結果、この土地インディアン返還され、「全部族インディアン連合財団」(UIATF)が発足することとなったこの年ワシントン州オーシャンパークのコテージ「ジョージ・ジョンソン・ハウス」を購入観光ホテルとして開業するキャサリンは姉シャーロットとともにチヌーク族の伝統復興注力し、伝統的な毛布工芸品などの実演行い、「AIWSL」を通してチヌーク族の歴史と文化に関する多数の書を著し、また各地講演行ったキャサリン人々送った手紙文末に必ず、「1865年に、キノールト保留地割り当て受けたチヌーク族のメンバーと書き添えていた。チヌーク族は条約一方的に破棄したアメリカ連邦政府によって、ワシントン州保留地没収された。チヌーク族は本来、連邦条約によって323,800㎡の保留地を「キノールト保留地」のなかに割り当てられていたのである生涯をかけて、キャサリンワシントン州の「絶滅部族」であるチヌーク族の連邦再認定要求関わり続けたまた、同じ「絶滅部族」のドゥワミッシュ族とも連携しその活動支援した2003年6月、西マージナルウェイに土地購入したドゥワミッシュ族が、伝統会議場であるの「ロングハウス」と「ドゥワミッシュ族部族センター」の開設式を行う。キャサリンもこの記念祝典招かれ祝辞述べた同年11月腎臓感染症ビター湖畔フォス老人ホーム医療センター入院。ここで同室になった白人女性メアリー・ウッドラフは、キャサリン祖先であるチヌーク族と関係のあった、「ルイス・クラーク探検隊」の隊員の子孫だった。この日はまた、探検隊西海岸到達した200周年に当たる日の前日だった。二人1世紀超えてのこの邂逅偶然に驚き合い以後互い家族ぐるみでの交流となった退院前日キャサリンメアリーのために二人だけチヌーク族の伝統的な祝祭催し、彼女にチヌーク伝統紋様入った毛布贈ったキャサリンはこう語っている。「これがどういうことなのかはわからないけれど、私たちのその部屋で、何かしらのことが進みつつあるよう思えます私たちをここで会わせた何かがです。」 2007年6月28日ベリアン自宅死去96歳だった。最晩年まで、「シアトル・インディアン・センター」の運営委員会関わり助言し続けていた。 夫ニール・トラウ(1913年1981年)との間にアーノルドシャーロットキリアン一男一女もうけており、彼女の遺志は、双子の姉のシャーロット2010年12月10日死去)と、二人の子供が引き継いだ。姉シャーロット歴史家で、チヌーク族の文化再興運動家だった。

※この「「シアトル・インディアン・センター」の設立」の解説は、「キャサリン・トラウ」の解説の一部です。
「「シアトル・インディアン・センター」の設立」を含む「キャサリン・トラウ」の記事については、「キャサリン・トラウ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「「シアトル・インディアン・センター」の設立」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「「シアトル・インディアン・センター」の設立」の関連用語

「シアトル・インディアン・センター」の設立のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



「シアトル・インディアン・センター」の設立のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのキャサリン・トラウ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS