「シアトル・インディアン・センター」の設立
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「キャサリン・トラウ」の記事における「「シアトル・インディアン・センター」の設立」の解説
こうして設立された「シアトル・インディアン・センター」は、その後拡大し続け、保留地を失ったインディアンたちが母族文化を表現し、自己向上する拠り所となった。シアトルに流れ込む多くのインディアンが、真っ先に訪れるのがこの「シアトル・インディアン・センター」だった。キャサリンら「AIWSL」のメンバーは、しばしばバス停で彼らの到着を歓迎した。 現在「シアトル・インディアン・センター」の所長を務めるカミーユ・モンソンはこう語っている。 「この団体における彼女の貢献は計り知れません。キャサリン・トラウと、彼女と共に中核をなした女性たちがいなければ、私たちは今日ここにいないでしょう。彼女たちは妨害を受けませんでした。あなたは、至る所で彼女らの働きの成果を目にすることができるでしょう。」 1961年、キャサリンら「AIWSL」はインディアン文化をインディアン以外の民族にも知らしめ交歓する目的で、全米のインディアン部族の文化行事を集めた大集会を開催し、これは毎年1000人以上の観衆を集める人気行事となり、団体に新たな組織作りの運営資金をもたらした。キャサリンら「AIWSL」は、続いて「シアトル・インディアン健康委員会」、「シアトル・インディアン教育委員会」を設立した。これは生き場所のないインディアンの抱えるアルコール中毒と周辺疾病、未就学児童の問題を受けたもので、センターに医師や教師のボランティアを招き、ここを医療と学習の拠点としたものである。 キャサリンはインディアンの権利についての活動の中で、しばしば州知事や上院議員と渡り合った。カミーユ・モンソンはキャサリンについてこう述べている。「彼女の声はとても力強く、そして彼女は本当に燃えるような女性だったんです。」 1960年代に入って、ワシントン州は「魚や動物を保護する」として「釣りと狩猟法」を制定。同州で鮭漁を生業とする多数のインディアン部族から漁業権を奪った。、ピュヤラップ族のボブ・サタイアクム、ニスクォーリー族のビリー・フランクJr、チュラリップ族のジャネット・マクラウドらは、運動団体「アメリカインディアンの生き残りのための協会」(Survival of American Indians Association)を結成し、州政府と合衆国に対し、漁猟権と生存権を確約したインディアン条約を再確認するための抗議行動を開始。ワシントン州は反「釣りと狩猟法」を掲げるインディアンと州との一大闘争の場となった。 1964年3月、ワシントン州で、インディアンたちが漁業権確認を巡る最大の抗議行動「フィッシュ=イン」を一斉決行する。キャサリンら「AIWSL」もこの問題に取り組み、抗議行動を支援している。 1970年、「シアトル・インディアン・センター」のボランティアだったバーニー・ホワイトベアーを始めとするインディアン抗議団が、ここをインディアン文化の拠点とするとして、シアトル南部の廃棄された米軍基地を占拠。キャサリンらはこの占拠団に食料や医療の支援を行い、結果、この土地はインディアンに返還され、「全部族インディアン連合財団」(UIATF)が発足することとなった。 この年、ワシントン州オーシャンパークのコテージ「ジョージ・ジョンソン・ハウス」を購入。観光ホテルとして開業する。キャサリンは姉シャーロットとともに、チヌーク族の伝統復興に注力し、伝統的な毛布や工芸品などの実演を行い、「AIWSL」を通してチヌーク族の歴史と文化に関する多数の書を著し、また各地で講演を行った。 キャサリンは人々に送った手紙の文末に必ず、「1865年に、キノールト保留地で割り当てを受けたチヌーク族のメンバー」と書き添えていた。チヌーク族は条約を一方的に破棄したアメリカ連邦政府によって、ワシントン州の保留地を没収された。チヌーク族は本来、連邦条約によって323,800㎡の保留地を「キノールト保留地」のなかに割り当てられていたのである。生涯をかけて、キャサリンはワシントン州の「絶滅部族」であるチヌーク族の連邦再認定要求に関わり続けた。また、同じ「絶滅部族」のドゥワミッシュ族とも連携し、その活動を支援した。 2003年6月、西マージナルウェイに土地を購入したドゥワミッシュ族が、伝統会議場である杉の「ロングハウス」と「ドゥワミッシュ族部族センター」の開設式を行う。キャサリンもこの記念祝典に招かれ、祝辞を述べた。 同年11月、腎臓の感染症でビター湖畔のフォス・老人ホームの医療センターに入院。ここで同室になった白人女性メアリー・ウッドラフは、キャサリンの祖先であるチヌーク族と関係のあった、「ルイス・クラーク探検隊」の隊員の子孫だった。この日はまた、同探検隊が西海岸に到達した200周年に当たる日の前日だった。二人は1世紀を超えてのこの邂逅の偶然に驚き合い、以後、互いの家族ぐるみでの交流となった。退院の前日、キャサリンはメアリーのために二人だけのチヌーク族の伝統的な祝祭を催し、彼女にチヌーク伝統の鮭の紋様の入った毛布を贈った。キャサリンはこう語っている。「これがどういうことなのかはわからないけれど、私たちのその部屋で、何かしらのことが進みつつあるように思えます。私たちをここで会わせた何かがです。」 2007年6月28日、ベリアンの自宅で死去。96歳だった。最晩年まで、「シアトル・インディアン・センター」の運営委員会に関わり、助言し続けていた。 夫ニール・トラウ(1913年 – 1981年)との間にアーノルドとシャーロット=キリアンの一男一女をもうけており、彼女の遺志は、双子の姉のシャーロット(2010年12月10日死去)と、二人の子供が引き継いだ。姉シャーロットも歴史家で、チヌーク族の文化再興運動家だった。
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