作品研究・解釈
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三島由紀夫自身は『家族合せ』を、『殉教』と並べて『仮面の告白』の〈萌芽が見られる筈である〉と記している。松本徹は、その意味を敷衍し、「近親相姦、姦通、不能、同性愛、純潔への希求といった、三島のキーワードとなるもの」が、『殉教』と同様に一編の中に含まれていると解説している。また、『春子』『殉教』『山羊の首』などともに、こうした作品が書かれた背景に、「少年の透明な感受性」から「(大人の)あやしい影に満たされた官能性」への移行があり、その「官能性」が、戦後日本の人間主義的な文学に対抗・挑戦する「武器」ともなっていたとしている。 吉田和明は本作を、三島が妹に対する感情を克明に描いた作品だと評している。また、自己嫌悪の物語として解釈する見方もある。北垣隆一は、この作品に登場する主人公兄妹は明らかに三島とその妹であると述べている。また、タイトルの「合せ」という語に特殊な意味を持たせていると解釈している。
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作品研究・解釈
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「荒野より (小説)」の記事における「作品研究・解釈」の解説
『荒野より』は、身辺雑記をそのまま小説にしたもので、三島の小説の中ではほとんど見られない異色作であるため、晩年の三島が何故、このような何の虚構設定もない、三島従来の方法論でない純粋な私小説、心境小説を書いていたのかに焦点が当てられ、この後、行動と死の世界に突き進んでいった三島の内面を探る作品の一つとして論じられる傾向がある。同時代の評価でも指摘されているように、〈芸術家にはたしかに、酒を売る人に似たところがある〉という作中の「さりげない言葉」に、三島の芸術観が垣間見られ、三島が「狂気・孤独・芸術」についての内的告白をしている作品でもある。 村松剛は、『荒野より』を発表した頃の三島は、それまで築き上げ、「開拓して来た多彩な世界」(〈私の心の都会〉の世界)に満足できなくなっていたとし、この小説の中で、「孤独な狂気の世界」である〈荒野〉に足を踏み入れる決意を表明し、次第に「荒野へ、行動の世界へ」と踏み込んでいったと考察している。そして最後は「だれもついて行けない孤独な地点」にまで、三島は歩み去っていったと村松は述べている。 中上健次は、私小説を書かない三島が、自分の両親や妻を登場させているのは、三島の短編の中でも独特であり、「一見私小説風な仕立て」の『荒野より』は、〈私〉から見た事件経過の1章目、家人達から見た事件経過の2章目、それらを突き合わせた思索の3章目という、芥川龍之介の『藪の中』のような3つの視点の「構成意志のはっきりした」作品であるにもかかわらず、「不思議な感触」を抱かせるとし、三島が「〈私〉ではないもう一人の〈私〉」という「ドッペルゲンゲル風な作品」をそれまでも『仮面の告白』や『金閣寺』など多く書いているが、『荒野より』が違うのは、「本来なら愚弄し、嘲笑し、こづきまわすはずの〈本当のこと〉などという言葉を口にする男」を、〈私〉の思索は男を免罪するように、「作家の逡巡や内省」が描かれていることで、そこに「不思議な感触」が生じるとしている。 そして中上は、〈私〉が最後に〈本当のことを話した〉と言うオチは「上手い、シャレた、少しばかり苦い味」で、そこに再び立ち現れるのも「ドッペルゲンゲル」であり、「〈本当のこと〉を求めて、今一度、男と共に〈私〉の元へ〈本当のこと〉を訊ねに行かなくてはならなくなる」と解説しながら、〈私〉と〈あいつ〉の関係を以下のように考察している。 三島由紀夫は生涯に渡って〈私〉と〈あいつ〉書き続けた作家と言える。〈私〉が『太陽と鉄』の筋骨たくましい作家なら、〈あいつ〉は、『仮面の告白』の青ざめた顔の若者である。言葉を換えれば、私は私である、という考えではなく、私は他者である、という考えを選んだ作家なのである。短編小説に特に顕著である絢爛たる比喩、古典的な構成は、三島由紀夫が、自己の孤独と共に育て上げた、私と他者を楽々と往還する魔術のひとつなのである。その魔術の見事さには目を見張るしかない。 — 中上健次「三島由紀夫の短編」 奥野健男は、元々は話者が直接、聴衆に物語ることから発生した「言語芸術」が、印刷技術の発達により活字を媒体とした「孤独な作者と孤独な読者」の関係に移行し、「遠隔力学の芸術」である「小説」というジャンルが生れたことを前置きし、三島という作家が特に「読者」との交遊・交流を避け、小説に関しては「孤独な遠隔力学による表現であること」に徹していたが、『荒野より』では珍しく孤独な「内心の秘密」が語られ、自らの「文学宇宙、心の地図」を説明し、『金閣寺』や『英霊の聲』など自作の〈憑かれる〉人物を冷静明晰に造型していることが明かされ、三島の知的で論理的な自己洞察力の鋭さや、怜悧な認識力が再確認されて、『仮面の告白』以来の「強い感動」を覚えたと評している。 また奥野は、三島が描く〈都会〉は昭和戦前期の「古風」さで「精巧な模型の都市」であり、三島自身も子供の頃から、世界は積木細工以上のものでないと捉えていたにもかかわらず、三島の観念の中の都市は、小説の中では「生きた都市」に変貌するとし、その理由は、三島が根っからの都会作家であり、都会の頽廃やニヒリズムを表現できる作家は日本において三島が一番であり、「都会の本質的な遊びや人間関係」を描くことができると同時に、「美や遊びや悦楽の周辺に居ながらも、そこに参加できないみそっかすの人間のみじめさと屈辱と復讐の心」を一番理解しているのも三島であるとし、「都会の落伍者、落伍しながらも都会以外に住む場所のない落伍者」は三島文学の重要人物となると解説している。 そして「三島の文学王国」は、「荒野の中にある孤立した都市」であり、その荒野は、安部公房の『砂の女』や『内なる辺境』の砂の荒野に似て、荒野から都市を侵略する騎馬民族か、あるいは『他人の顔』や『箱男』の主人公を想起できるが、三島の荒野は空襲で焼け野原になった廃墟に思えると、奥野は以下のように考察し、生前の三島は「動かない都市を、荒野を超えて専ら、海に求めた」とも語っている。 三島の都会は戦争体験の瓦礫の中、アナルヒーな青年期の心情によってつくられた硝子の城『鏡子の家』であったのかもしれない。砂上の楼閣、それ故に三島由紀夫は自らの手でこわさなければならなかったのか。火で焼かなければならなかったのか。そう言えば三島王国の空は、いつも敗戦の日の八月十五日の真夏の青空がはりつめられ固着してしまっている。そこから降りて来る宇宙人は、世界の破滅、人類の滅亡を予言する。 — 奥野健男「『英霊の声』の呪詛と『荒野より』の冷静」 清水昶は、人生が絶えず期待し要求する「童話」、「まれびと」(宮沢賢治の『風の又三郎』の又三郎のような存在)について触れながら、日本の敗戦の年に遺書を残していた三島は、「あきらかに戦後という時代に転校してきたまれびと」であったとし、様々な作品の中で自身の分身である「まれびと」を描いた三島が、「戦中の死の意識」を、「生死不明」の戦後の時代に突きつけることにより、「人間が人間として生きるための意識」を活性化させようとしたと考察している。 そして清水は、『荒野より』の中で、〈あいつ〉がやって来た〈荒野〉について三島が言う、〈いつかそこを訪れたことがあり、又いつか再び、訪れなければならぬことを知つてゐる〉という「述懐」には、「虚無の美へと踏み込むことによってみえてくる輪廻転生への三島の熱い願望がある」とし、以下のように考察している。また『荒野より』と似た作品『独楽』にも触れ、「大人になってしまったことの絶望感」を「少年期という過去」から照らし出していると解説している。 青年はまれびととして死と虚無の世界からやって来たのである。死から再生した者として三島の目の前に立ちあらわれた。『荒野より』は三島が死の四年前、昭和四十一年に書いた作品だが、その頃から彼は、たぶん本気で死から再生するまれびとの存在を信じようとしていた。 — 清水昶「日常の中の荒野――『真夏の死』、『孔雀』、『荒野より』、『独楽』」 青海健は、類似的で「二曲一双」な『荒野より』と、随筆『独楽』を詳細に比較論考し、『独楽』が書かれた時点では、三島はすでに自死の決意を固めていたため、〈先生はいつ死ぬんですか〉と質問しに男子高校生と「私」の関係は「距離間隔なし」に描かれ、透明に澄んだ〈独楽〉の瞬間に〈何か〉と入れ替わり、「異界(死の世界、文学の否定へと到達してしまった者の住む場所)からのメッセージ」を〈私〉に届けた〈少年〉は、「行動の世界へと参入した三島自身の姿」であり、彼に自己の姿を仮託することで、三島が自ら少年へと変身していると考察している。 そして『荒野より』の時点の三島には、まだ自死の考えはなく、「日常性にどっぷりと浸った幸福な世界の住人」であったため、「〈荒野〉の世界(文学や小説そのものが本質的に抱えこんでいる孤独や狂気の領域)」から来た青年は日常性を破る闖入者として現われ、青年と「私」の間にはまだ大きな距離感覚があるとし、「異界」(死)がすでに〈狂気〉ではなくなっていた『独楽』とはその点の違いはあるが、両作品は共に同じ主題を持ち、青年は〈私〉の分身〈あいつ〉であり、「いつか確実に〈私〉を襲う」ものとして〈荒野〉が予感されていると青海は考察している。 また青海は、三島を襲う「死」は単に抽象的なものでなく、「肉体や行動の美学」、二・二六事件と天皇、「戦後社会のあり方をめぐる問題性」などの「思想」と深く関わっているが、心境小説の問題では「心情」の内部を探るとし、そこで鍵となる「作者三島と語り手〈私〉との分裂」、「〈私〉と青年(少年)との分身または変身」の観点を鑑みつつ、読者に自決の決意を隠し「仮面」の書き手にならざるを得ない『独楽』でさえも、「純粋で素直な自己の真情を小説として告白すること」を成功させているとし、まだ自衛隊治安出動の希望を持っていた1969年(昭和44年)の新宿デモ以前の時点に書かれた『蘭陵王』に見られる「無意識の死の予感」とも絡めて、蘭陵王の仮面の下の素面の〈やさしい顔立ち〉の世界は、「恐るべき〈荒野〉(死)」と同じ地点でもあり、同時にそこは「人間存在が回帰していくべき〈やさしい〉故郷」であり、「すべての存在の究極の在る極み、絶対」であると解説している。 そして、晩年の三島が『荒野より』、『蘭陵王』、『独楽』のような「虚構のヴェール」の無い小説作法で異色の素朴な心境小説を何故書いたのか、何を読者に書き残そうとしたのかの問題に青海は焦点を絞り、三島が常に「二元論的な世界観」の分裂につきまとわれて「言葉の世界」と「行動の世界」を乗り越えた地点に近づこうとしていたことに触れ、以下のように考察している。 「独楽」における作者と語り手の峻別、つまり純粋な澄んだ世界に住む少年と、文学という虚構に賭けるしかない「私」との距離、また、「荒野より」の「私」が生活する賑やかな都会と、青年の故郷である、それを取り囲む孤独な荒野とのへだたり。(中略)「死」は、これら二つのものを、一つの絶対へと繋ぐ架橋である。逆の見方をするなら、「死」を目前にすることではじめて、文学者三島は、その晩年において、二つのものの統合としての絶対を現出させることに成功した。そこは「仮面」そのものが「告白」と化す、あの不思議な二元論統合の一元的な世界である。これらの“心境小説”は、言葉の錬金術師三島の晩年の真情を、そのようなかたちで読者に提示している。 — 青海健「異界からの呼び声――三島由紀夫晩年の心境小説」 佐藤秀明は、青海健が〈荒野〉を「文学や小説そのものが本質的に抱えこんでいる孤独や狂気の領域」と呼び、それが「やがて小説家三島を死へと拉致していく恐るべき領域」とした論考に同意を示し、その〈荒野〉は、三島が15歳の時に書いた詩『凶ごと』の〈町並のむかう〉と同じ場所であり、10代半ばで〈荒野〉の存在に気づいてしまった三島は、生涯にわたって、その〈荒野〉を待ち続けたと考察しながら、その〈町並のむかう〉から〈凶変なだう悪な砂塵が〉〈おしよせてくる〉と書かれた『凶ごと』の、〈窓に立ち椿事を待つた〉〈わたくし〉は、「〈椿事〉が起こることによって何ものかになる」とし、もしも〈椿事〉が起きないのならば、「〈わたくし〉が〈椿事〉を起こすしかない」という思考が、後年の三島が持った行動原理だったと解説している。 また佐藤は、三島が「絶対を垣間見ん」とした「能動的ニヒリスト」と呼ばれたことに触れ、三島が必要とした〈絶対〉〈絶対者〉(「虚無」と言い換えることも可能な)イメージは、高所や垂直にあるのではなく、「平面上の彼方」(〈荒野〉〈町並のむかう〉)に存在するとし、『英霊の聲』では、理想の美的天皇像が〈黄塵のかなた〉から出現し、『奔馬』では、自刃する飯沼勲の見る〈昇る日輪〉(〈絶対〉の観念の具現)が「水平軸のかなた」に位置すること、その他の諸作品(『太陽と鉄』『鏡子の家』)でも、究極を求める思考の感覚が、〈縁(へり)〉〈辺境〉という言葉で表現され、その「超越的地点」かつ「〈絶対〉との境界」が「距離の感覚」で示されていることを指摘している。 そして、そういった三島の思考は、「古代日本の思考」に似ており、古代のヤマトことばは、敬いを「遠近の感覚」によって表わし、上下を意味する言葉はなかったとする国語学者の大野晋の研究(「近くが親愛、遠くが尊敬の扱いとなっていた」)を佐藤は紹介して、三島が求めた〈絶対〉への「距離の感覚」が、「階層的な不可能性ではなく、到達の可能性」を帯び、「すでにそこを知っている、そこに何があるのかを知っているという既知の感覚」(経験以前の既知)を三島が10代の頃から持ち続けていたことが、その作品世界から看取されるとし、その「現実とは別の次元に知覚された超越性」である「現実が許容しない詩」は、三島の生涯の様々な局面で展開していったと論考している。
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作品研究・解釈
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橋川文三は、「二・二六における天皇と青年将校というテーマは、ほとんどドストエフスキーの天才に俟たなければ描ききれないであろう」というのが自論だったと前置きし、その理由として、そのテーマが「神学の問題」を孕み、「正統と異端という古くから魅力と恐怖にみたされた人間信仰の世界」に関わる問題があるからだとしている。 そして『英霊の聲』では、「ある至高の浄福から追放されたものたちの憤怒と怨念」が凄まじいまでに満ち、「幽顕の境界を哀切な姿でよろめくものたちのの叫喚が、おびやかすような低音として、生者としての私たちの耳に迫ってくる」と評し、作者の三島はその中で、「それら悪鬼羅刹と化したものたちの魂が憑依するシャーマンの役割」をしているとし、以下のように解説している。 三島はやはりここで、日本人にとっての天皇とは何か、その神威の下で行われた戦争と、その中での死者とは何であったか、そして、なかんずく、神としての天皇の死の後、現に生存し、繁栄している日本人とは何かを究極にまで問いつめようとしている。これが一個の憤怒の作品であるということは、それが現代日本文明の批判であるということにほかならない。 — 橋川文三「中間者の眼」 瀬戸内寂聴は、最後の〈何者かのあいまいな顔に変貌〉した川崎青年の死顔の、その変容した顔が天皇の顔だといち早く気づき、「三島さんが命を賭けた」と思い手紙を送ったと述べている。すると三島から、〈ラストの数行に、鍵が隠されてあるのですが、御炯眼に見破られたやうです。能と仰言るのも、修羅物を狙つたわけです。小さな作品ですが、これを書いたので、戦後二十年生きのびた申訳が少しは立つたやうな気がします〉という返事があった。 加藤典洋は、1966年(昭和41年)に書かれた『英霊の聲』は、日本の戦後にとり、最も重要な作品の一つであるとし、「日本の戦後に三島のような人間がいてくれたこと」を日本の戦後のために喜び、「日本の戦後の意味」が、三島がいるといないで、「大違い」となり、「三島がいなければ、日本の戦後は、一場の茶番劇になり終わるところだった」理由について解説している。 加藤は、『英霊の聲』に示されている三島の考えには、「もしどのような先入観からも自由なら、こう考えるだろうというような普遍的なみちすじ」があり、「日本の戦後のローカルな論理」に染まらない三島が、「普遍的な人間の考え方」をそこで示したことによって初めて、「日本の戦後の言語空間がいかに背理にみちたものであるか」が告知されていたとして、最後に霊媒師の川崎君の顔が〈あいまい〉な「昭和天皇の顔」になるという暗喩が含まれている『英霊の聲』の主題について以下のように考察している。 自分のために死んでくれと臣下を戦場に送っておきながら、その後、自分は神ではないというのは、(逆説的ながら)「人間として」倫理にもとることで、昭和天皇は、断じて糾弾されるべきだということ、しかし、その糾弾の主体は、もはやどこにもいないということである。戦争の死者を裏切ったまま、戦前とは宗旨替えした世界に身を置き、そこで生活を営んでいる点、彼も同罪である。糾弾者自身の死とひきかえにしかその糾弾はなされない。そういう直感が、この作品の終わりをこのようなものにしている。 — 加藤典洋「その世界普遍性」 島内景二は、『英霊の聲』と、三島が『葵上』(近代能楽集)でも採用した原曲の『葵上』を比較しながら、「六条の御息所=兵士たち」、「光源氏=天皇」という対応構造をみて、三島が『英霊の聲』創作ノートの中で、〈霊媒死す。天皇の化身〉と記していることに注目しながら、天皇を恋し信じて決起し、裏切られて死んだ二・二六事件や神風特攻隊の英霊たちに長時間打ち据えられ命を失う「川崎君」が「天皇の身代わり」になることと、光源氏に裏切られ憎みつつも、それ以上に光源氏を深く愛している六条の御息所の怒りが、「葵上」へと向かい、激しい「後妻打ち」となることの構図の類似性を指摘している。そして島内は、そこに三島の創設した会が「楯の会」と命名された真の理由があるとして以下のように解説している。 「醜の御楯」は、天皇のために楯となって天皇を守り、朝敵(外敵)と戦う勇敢な兵士、という意味だけではない。「楯の会」は、非業の死を遂げた、無数の英霊たちの鎮まらぬ天皇御自身への怒りを、天皇の身代わりとなって一身に引き受けるために作られた組織なのかもしれない。戦後日本は昭和元禄という偽りの繁栄にうつつを抜かし、精神性よりも「金銭」と「物質的幸福」だけが物を言う世の中に成り下がった。そうなると、「神国」を護るために尊い命を捨てた無数の英霊たちの憤怒は行き場を失う。このまま放置すれば、その怒りが天皇本人へと向かいかねない。だから『英霊の聲』では、「川崎君」が天皇の代わりに死んでいった。 — 島内景二「第五章 日本文化と戦った三島由紀夫――人間は誰のために死ねるか」 また島内は、『朱雀家の滅亡』の場合も、朱雀侯爵が自らの一族の滅亡を受け容れ、「楯」になっている構図があるとし、「天皇陛下万歳」を三唱して自死した三島もそのように、「天皇」(あるいは「天皇制」)の「醜の御楯」となり、「英霊たちの怒りを引き受ける役割」を果たそうとしたと述べて、英霊の怒りが理解できる三島だったから、「その怒りを我が身に引き受けよう」とし、「川崎君」の死顔が「天皇の顔」に近づいたのと同様、三島が「天皇のために死ぬ」ことは「天皇として死ぬ」ことと同じであったと考察している。
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