うわなり‐うち〔うはなり‐〕【後=妻打ち】
後妻打ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/06 00:20 UTC 版)
後妻打ち(うわなりうち)とは、日本の平安時代から江戸時代にかけて行われた風習のこと。夫がそれまでの妻を離縁して後妻と結婚するとき、先妻が予告した上で後妻の家を襲うというものである。さうどう打(相当打[1]あるいは騒動打[2])とも称するが、時代ごとに様式は異なる。
注釈
出典
- ^ 氏家 2007, p. 17.
- ^ 川口 2005, p. 16.
- ^ 笹川種郎 編『史料大成 続編 第36』矢野太郎 校訂、内外書籍、1939年(昭和14年)、134頁。doi:10.11501/1207143。NDLJP:1207143/79。
- ^ a b 氏家 2007, p. 16.
- ^ 藤原道長 著「廿五日癸亥水成 - 寛弘九年二月 ― 三月」、立命館出版部 編『御堂関白記 [15]』立命館出版部、1936年(昭和11年)、350頁。doi:10.11501/2591262。NDLJP:2591262/194。
- ^ 川口 2005, p. 15.
- ^ 平康頼『宝物集 (新型袖珍名著文庫 ; 第13)』芳賀矢一 校、富山房、1927年(昭和2年)、65頁。doi:10.11501/1452746。NDLJP:1452746/43。
- ^ 「十一月小」『吾妻鏡』 第1、与謝野寛 ほか 編纂・校訂、日本古典全集刊行会〈日本古典全集 第1回〉、1927年、95頁。doi:10.11501/1110798。NDLJP:1110798/62。"養和2年(1182年)11月10日条「御寵女(亀前)住于伏見冠者広綱飯嶋家也。而此事露顕。御台所殊令憤給。是北条殿室牧御方密密令申之給故也。仍今日、仰牧三郎宗親、破却広綱之宅。頗及恥辱…」"。
- ^ 山本みなみ『史伝 北条義時 武家政権を確立した権力者の実像』小学館、2021年12月23日、83頁。ISBN 978-4-09-388845-5 。2022年3月28日閲覧。
- ^ 氏家 2007, pp. 14–16.
- ^ 清水 2021, p. 141.
- ^ 以上引用は、『日本庶民生活史料集成』第八巻所収の『昔々物語』より(390 - 391頁)。ただし原文には濁点がないのでこれを補い、また読みやすさを考え適宜改行した。
- ^ “烹雑の記. 前集 / 滝沢觧 編纂 ; 柳々居辰斎 [ほか画]”. wul.waseda.ac.jp. 2024年5月18日閲覧。
- ^ 岩瀬醒、喜多武清、歌川豊広「後妻打古図考」『骨董集 [3]』文溪堂、6頁。doi:10.11501/2554345。NDLJP:2554345/6。
- 後妻打ちのページへのリンク