後套進攻作戦とは? わかりやすく解説

後套進攻作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/16 09:10 UTC 版)

後套進攻作戦(こうとうしんこうさくせん)とは、日中戦争中の1940年昭和15年)1月から3月までの間、日本駐蒙軍により二次に亘って行われた、綏遠省後套地区(五原地方)への進攻作戦である。当初の作戦秘匿名は八号作戦。別名の五原作戦(ごげんさくせん)でも知られる。




  1. ^ 後套地区とは、黄河南岸地区(オルドス地方)を前套地区と呼ぶのに対比した用語で、黄河北岸の五原地方を意味する。
  2. ^ a b 『支那事変陸軍作戦(3)昭和十六年十二月まで』 95-97頁。
  3. ^ 『後套進攻作戦に関する参考書類送付の件(3)』 19-21頁。
  4. ^ a b c 『支那事変陸軍作戦(3)昭和十六年十二月まで』 98-100頁。


「後套進攻作戦」の続きの解説一覧

後套進攻作戦(第一次)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 09:57 UTC 版)

「後套進攻作戦」の記事における「後套進攻作戦(第一次)」の解説

1月28日駐蒙軍行動開始将兵らは自動貨車分乗して三方向から五原向かって前進した騎兵集団主力黄河南北両岸西進し途中で約5,000中国軍撃破して、2月3日五原付近に集結した第26師団は、五原北方万和付近陣地攻略してから五原西方回り込み2月3日五原突入した翌日から、日本軍一部部隊追撃開始し五原南西120キロ臨河やその北西60キロの善覇を占領一部寧夏省内にまで入ったこの間内蒙軍の一部傅作義軍の西方への退路遮断した傅作義軍は、寧夏方面黄河南岸の伊克昭盟内に退却した。こうして日本軍は、おおむね目標達成したので、2月中旬から五原からの撤退始め3月1日までには元の態勢復帰した日本軍の損害は、戦死160名、戦傷461名、凍傷患者入院)534名であった

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