か‐きょう〔‐ケウ〕【架橋】
【架橋】(かきょう)
読んで字の如く、橋を架ける事。
軍隊においては工兵(自衛隊でいう施設科)の管轄である。
進攻ルート上に河があれば橋は重要な戦略拠点となるが、防御側もそれは百も承知。
相当の戦力を貼りつけて必死で防衛し、限界なら橋を爆破して撤退する。
そうなると、歩兵なら泳げば渡れるが、行動の自由が大幅に制限される上に狙撃の的になりやすいこともあって危険な状況に陥る。
また、水上走行できない車両や重火器の類は運べない。
そこで架橋作業が必要になり、専用の車両や機材(架橋戦車等)で橋を架ける。
架橋
架橋
架橋
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:11 UTC 版)
岡村島は、日本本土(北海道、本州、四国、九州、沖縄本島)と橋で繋がっている島の中では熊本県の樋島・下須島・通詞島(ともに7橋)と並んで一番橋を渡る回数が多い。さらに、所属する市町村役場までの通過架橋を比較すると17橋という桁違いの橋数を誇る。 (岡村島)→岡村大橋→(中ノ島)→中の瀬戸大橋→(平羅島)→平羅橋→(大崎下島)→豊浜大橋→(豊島)→豊島大橋→(上蒲刈島)→蒲刈大橋→(下蒲刈島)→安芸灘大橋→(本州)→新尾道大橋→(向島)→因島大橋→(因島)→生口橋→(生口島)→多々羅大橋→(大三島)→大三島橋→(伯方島)→伯方橋→(見近島)→大島大橋→(大島)→来島海峡第一大橋→(アンカーブロック4A)→来島海峡第二大橋→(馬島)→来島海峡第三大橋→(四国) このほか、北接する広島県の離島大崎上島への架橋(安芸灘諸島連絡架橋8号橋)、大下島などを経由してしまなみ海道沿線の大三島に架橋する構想(関前諸島架橋構想)がある。
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架橋
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1923年頃には、パナマ運河に船の通航に関わらず渡ることのできる橋を架けることが優先事項として提案されていた。パナマ政府は運河地帯を統治していたアメリカ合衆国に対して、橋の建設を要請し続けていた。そして1955年、レモン・アイゼンハワー条約(Remón-Eisenhower treaty)が結ばれ、ついにアメリカ合衆国によって橋が建設されることになった。 2,000万ドルにおよぶこの建設プロジェクトを受注したのは、ジョン・F・ビーズリー・アンド・カンパニー(John F. Beasly & Company)であった。1958年12月23日、アメリカ合衆国駐パナマ大使ジュリアン・ハリングトン(Julian Harrington)とパナマ大統領アーネスト・デ・ラ・ガーディア・ナバロ(Ernesto de la Guardia Navarro)の出席のもとに起工式が執り行われた。翌1959年10月12日に着工、完成には2年半の歳月を要した。 着工からちょうど3年後の1962年10月12日、ついにアメリカ橋は開通した。開通式ではアメリカ合衆国陸軍・空軍、およびパナマ国軍の音楽隊による演奏の後スピーチが行われ、祈りと音楽、そして両国の国歌が流れた。リボンを切ったのは元パナマ運河地帯総督で、ケンタッキー州選出の元連邦議会議員のモーリス・サッチャーであった。そして、参加者全員で橋を渡った。開通式の模様はテレビ・ラジオを通じて全土に伝えられた。開通式では大勢の人出に対応するため、厳重な雑踏警備が行われた。 開通式において、ジョージ・ベル(George W. Bell)はそのスピーチの中で「今日この日、我々はパン・アメリカン・ハイウェイを実現させる夢への新たな、そして明るい第一歩を踏み出した。今日この日開通したこの橋 — 真のアメリカの掛け橋(Bridge of the Americas) — は、アメリカ合衆国とパナマを結ぶハイウェイの最終ステージを完成に導いた」と述べた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/19 05:00 UTC 版)
船の通行と両立させるために可動橋やループ橋が架けられてきた。 天草瀬戸大橋 - 本渡瀬戸歩道橋
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近隣の村の伝承によれば、ほぼ例年で峠を越えようとして溺れたりして遭難死した者は4月から5月に掛けてピークとなっていたようである。そのような困難な環境での架橋のために悪魔の橋と呼ばれるようになった橋がこの地に存在している。同じような環境で架けられて同じく悪魔の橋と呼ばれるようになった他の橋と並んで、アンティ・アールネによる民話集1191番に架橋の伝説が収録されている。 ロイス川を渡るのがあまりに困難だったため、あるスイスの牧夫が悪魔に橋を架けるように願った。すると悪魔が現れて、願いを引き受ける代わりに橋を最初に渡るものを生け贄に差し出すようにと条件をつけた。彼はそれを受け容れたが、橋が完成すると彼はヤギを先に渡らせて生け贄を回避した。この詐欺行為に怒った悪魔は岩をつかんで橋に投げつけようとしたが、ある老婆が十字架を岩に描いて悪魔が岩をつかむことができないようにした。 この伝説の岩は今も存在しており、1977年にゴッタルド道路トンネルの建設のためにこの220トンの岩は30万スイスフランを投じて127メートル移動させられている。 この架橋によりロイス川に沿って、北海へ注ぐライン川と、ティチーノ州からミラノの方へ流れて地中海に注ぐポー川の分水嶺を越えることができるようになった。ただし1775年に馬車の通れる改良された道路が建設されるまで、徒歩と駄獣のみが通行できる道であった。1799年にはフランス革命戦争に参加していたロシアのアレクサンドル・スヴォーロフ元帥がこの峠を通過している。
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来島海峡には、大島・馬島間を来島海峡第1大橋、第2大橋、馬島・今治間を第3大橋が跨ぐ、3連箱桁形式吊橋の来島海峡大橋が架けられている。この形式の橋としては来島海峡大橋が世界初である。西瀬戸自動車道として供用される本州四国連絡橋の尾道・今治ルート(通称:瀬戸内しまなみ海道)の一部を構成している。第1~第3大橋を合計すると4105 mの長さがある。 橋には自転車・歩行者道が併設され、海峡や通過する船舶を眺めながら徒歩であれば無料で渡ることができ、時折ウォークイベントも開催される。自動二輪車(有料)も通行可能であり、日常的に通勤や所用で利用する人も居る。 橋ではライトアップも行われており、主塔、桁、橋脚、アンカレイジは反射光、ケーブルは直接光である。景観照明としての設備設置は、橋が観光資源となることを期待した周辺自治体の要望によるところが大きい。副次的効果として、操船目標が増えて夜間の航行が容易になったとの指摘がある。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/27 08:24 UTC 版)
ザーヤンデルード川には、古い橋、新しい橋 (pol) がいくつも架かっている。最も古いのは、5世紀に建造されたシャフレスターン橋(英語版)で、現在も歩行者用の橋としてシャフレスターン (Sharestan) の村で利用されている。
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詳細は「架橋」を参照 架橋は、多環式化合物における2つの橋頭をつなぐ無分岐の原子鎖または単原子や共有結合である。
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そのままでは進めないような場所でも大量の軍隊アリが集まって抱きつきあうことで即席の橋や梯子をつくり、強引に行軍することで知られる。アリは世界中に八千種いるというが、ここまでするのはグンタイアリ亜科やサスライアリ亜科のみといわれる。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 16:26 UTC 版)
かつて、毎年氾濫する厚別川には橋がなく、北通り(北野地区)と坂上(平岡地区)の往来は出来なかった。開拓者の中には裸足で冬の冷水をわたり、凍傷にかかって足を切断する者もいた。1896年(明治29年)に厚別郵便局が開業したが、対岸へ届けることが出来ず、郵便物を石にくくりつけて投げて渡していた。最初に架けられたのは柳瀬橋(現在の東北通)だが、洪水で流出した家屋が橋桁に当たって橋が失われることもあった。現存する橋はいずれも再建されたものである。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 07:36 UTC 版)
屋我地大橋開通前は今帰仁村の運天港から船で屋我地島に渡っていた。1953年(昭和28年)に初代屋我地大橋が完成したが、1960年(昭和35年)のチリ地震による大津波で破壊された。その後すぐ2代目の屋我地大橋を建設し、1963年(昭和38年)に完成した。しかし本土復帰後、年々進む道路整備で幅員5.5mと小さく歩道もなく危険だったため、1990年(平成2年)頃から3代目の建設に着手。そして1993年(平成5年)3月に3代目の現在の屋我地大橋が完成した。 沖縄本島と屋我地島の間の奥武島にも架橋されており、現在の橋は1982年(昭和57年)に完成している。 また屋我地島から1km以上離れた古宇利島にも2005年(平成17年)に古宇利大橋が開通し(橋は県道古宇利屋我地線)、さらに沖縄本島の今帰仁村側にも2010年(平成22年)にワルミ大橋が開通した(橋は県道屋我地仲宗根線)。このためこれらの橋の建設にあわせて道路改良がさらに進められている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 22:15 UTC 版)
関東大震災の後の帝都復興事業に対応する形で新たに決定した1927年(昭和2年)8月の東京府の都市計画の中に「補助線道路86号」(現在の都道60号市川四ツ木線の一部)があり、本奥戸橋はこの新道路の一部に当たっている。橋は1932年(昭和7年)4月開通、橋長122.1 m、幅員13.2 mの鋼橋で、西側が単純ポニートラス橋、東側がプレートガーダー橋という構造であった。名称は、その上流に1914年(大正3年)4月に架橋された「奥戸橋」が既に存在したため、これに対して名付けられたという。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 02:12 UTC 版)
Clip 1880年『府県新設区ノ図広島』。 1878年(明治11年)7月、この付近の富豪ら有志により、猿楽町(現在の紙屋町)から中島町の北たもとの通称「慈仙寺鼻」(本川と元安川分岐の中洲頂点部)を経由し鍛冶屋町(現在の本川町)を結ぶ、"くの字型(V字型)"の木橋が架けられた。当時、2つの橋が相合う様から「相合橋」と名がついた。渡るときにその富豪が金銭を徴収したことから別名「銭取り橋」とも言われた。 当時広島一の繁華街であった中島町をこの橋が繋いだ。交通の要所として、西方向から当時広島城敷地内にあった広島鎮台(のち第5師団)や西練兵場を結ぶ重要な橋となった。市内に水道が普及していなかったこの当時、慈仙寺鼻には"川水会社"という河川水を組み上げてろ過し上水として供給していた団体が存在していた。 1894年(明治27年)、民間から広島市へ移管され以降無料開放される。同年7月日清戦争が始まり明治天皇が広島に行幸、臨時の大本営である広島大本営が広島城内に設置されている。 この相合橋が現在の相生橋に改名した時期は不明。1899年(明治32年)広島県庁編『広島臨戦地日誌』では「相合橋」表記が用いられていること、1913年(大正2年)吉田直次郎編『広島案内記』では「相生橋」表記であることから、少なくとも1900年代初頭には現名が用いられている。また「東相生橋」「西相生橋」と東西で別個表記されていた資料もある。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 15:03 UTC 版)
広島県側は県の積極的な架橋により、大崎上島を除く大型の島は離島指定が解除されている。一方、愛媛県はしまなみ海道を除けば架橋が進んでいない。上島町や大下島などの離島が存在するほか、岡村島は四国ではなく本州に接続されている。 小さな島が密集していることから架橋が盛んな地域であり、本州と四国をつなぐ瀬戸内しまなみ海道が向島-因島-生口島-大三島-伯方島-見近島-大島-馬島を通る形で建設されている。また、下蒲刈島-上蒲刈島-豊島-大崎下島-平羅島-中ノ島(以上広島県)-岡村島(愛媛県)までは、安芸灘諸島連絡架橋の一部として愛称・安芸灘とびしま海道で連結している(全体構想としては大崎上島までのルート)。江田島・倉橋島なども本州と橋で繋がっている。 表 話 編 歴 本州四国連絡橋尾道・今治ルート 橋梁新尾道大橋・尾道大橋 - 因島大橋 - 生口橋 - 多々羅大橋 - 大三島橋 - 伯方・大島大橋(伯方橋 - 大島大橋) - 来島海峡大橋(来島海峡第一大橋 - 来島海峡第二大橋 - 来島海峡第三大橋) 通過する芸予諸島の島々向島 - 因島 - 生口島 - 大三島 - 伯方島 - 見近島 - 大島 - (武志島) - 馬島 道路西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道) - 国道317号 - しまなみ海道サイクリングロード(広島県道466号向島因島瀬戸田自転車道線 - 愛媛県道325号今治大三島自転車道線) 表 話 編 歴 安芸灘諸島連絡架橋(安芸灘とびしま海道) 橋梁安芸灘大橋 蒲刈大橋 豊島大橋 豊浜大橋 平羅橋 中の瀬戸大橋 岡村大橋 (未定) 通過する諸島下蒲刈島 上蒲刈島 豊島 大崎下島 平羅島 中ノ島 岡村島 (大崎上島) 道路広島県道74号下蒲刈川尻線(安芸灘大橋有料道路) 蒲刈広域農道 広島県道356号豊浜蒲刈線 大崎下島広域農道(安芸灘オレンジライン) 管理者広島県道路公社 広島県 広島県呉市 愛媛県今治市 関連道路西瀬戸自動車道(しまなみ海道)
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1885年(明治18年)、宇品築港事業にともない架橋された。140間(約255m)規模の橋で当時広島でもっとも長い木橋であったことから「長橋」(ながはし)と呼ばれ、「川口橋」という別称もあった。ちなみに、橋自体は1885年以前から存在し、1885年は「架け替え」とする見解もある。この長橋の名はしばらく使われ、少なくとも大正時代初期まで用いられたとする記録がある。 同年8月、山陽道行幸中の明治天皇が広島を訪問し、この橋を渡ったことから「御幸橋」と改称された。 なお明治天皇は合計3度この橋を渡っている。あと2回は1894年(明治27年)、日清戦争勃発し広島城内に広島大本営が設置された際に、大本営から宇品港を出発し呉鎮守府を行幸することになりその行き帰りの道順としてこの橋を渡っている。この時の行幸記念として御幸橋に改称したとする資料もある。 御幸橋は広島市中心部から宇品港へと向かう幹線道路上に位置しているため、日清戦争から第二次世界大戦に至るまで、隊列を組んだ兵士・軍人たちは市中心部(基町)の陸軍駐屯地から南下してこの橋を渡り、兵站基地たる宇品から海外の戦場へと出征していった。 1911年(明治44年)、再び木橋に架替が行われている。この時点での長さ114間(約207m)、幅4間(約7.27m)で、未だ市内最長の長さであった。この御幸橋は、1912年(大正元年)の市電開通時に軌道を通すことができず(1915年まで御幸橋西詰めの電停(現在の御幸橋電停)が終点)、対岸の宇品方面に路線を延伸した際には橋の西詰めの電停でいったん乗客を降ろし、徒歩で橋を渡って東詰の電停で再び乗車させる方法が取られた。1919年(大正8年)、この橋の北側(上流側)に軌道専用橋が竣工され、市電は連結される。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 22:36 UTC 版)
中国国分によって山陰道・山陽道のそれぞれ西部に広大な領地を有した安土桃山時代の大名毛利輝元は、九州征伐の終わった天正15年(1587年)以降、西国の政治的安定を背景に、本拠地を山間部に立地する安芸国吉田郡山城(広島県安芸高田市)より、水上交通に適した太田川水系の河口部に位置する安芸広島(広島県広島市)に遷した。新しい居城となった広島城(広島市中区)は天正19年(1591年)に完成し、輝元は同年1月8日に入城した。いくつか小集落があったもののほとんど何もない海浜だった広島であったが、その際に城下町が整備された。 猿猴橋が最初に木橋として架橋されたのはこの頃である。架橋年は、広島市が公開する資料では天正17年(1589年)頃あるいは天正19年京橋とほぼ同時期に完成としている。建設当時は「猿郎(えんろう)」の古語である「ゑんろう橋」「ヱンロウ橋」と名付けられた。
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