薩英戦争
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脚注
参考文献
- アジア歴史資料センターRef.A07060050900(国立公文書館)、鹿児島戦争之英文新聞紙翻訳・全、1863年8月26日(文久3年7月13日)
- 編者:大山元帥傳編纂委員会(代表尾野實信)、『元帥公爵大山巌』(大山元帥傳刊行会1935年3月10日)。
- 編者:公爵島津家編纂所『薩藩海軍史(中巻)』(原書房、1968年)。 ISBN 4-562-00164-X
- 宮本又次『五代友厚伝』(有斐閣、1981年1月)。
- 石井孝『明治維新と自由民権』(有隣堂、1993年) ISBN 4-89660-115-7
- 編者:日本史籍協会『島津久光公實記(二)』(財団法人東京大学出版会、1997年)。ISBN 4130978888
- 鵜飼政志「1863年前後におけるイギリス海軍の対日政策」『学習院史学』第37巻、学習院大学、1999年、40-58頁、NAID 110000135676。
- 萩原延壽『旅立ち 遠い崖1 アーネスト・サトウ日記抄』(朝日文庫、2007年)。ISBN 978-4022615435
- 同『薩英戦争 遠い崖2 アーネスト・サトウ日記抄』(朝日文庫、2007年)。ISBN 978-4022615442
- アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新(上)』(坂田精一訳、岩波文庫、2014年7月)。ISBN 4-00-334251-8
- 泉江三編著『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦』下(グランプリ出版、2001年) ISBN 4-87687-222-8
関連項目
外部リンク
注釈
- ^ 「祇園洲砲台伍長税所淸太ただ一人の戦死者」
- ^ 「流弾により7月2日は守衛兵3人死亡、負傷5人、7月2日は守衛兵1人死亡」
- ^ 当時はアイルランド島全体がイギリス領であった。
- ^ 「英艦隊が前の浜に停泊するや、忠義公は軍役奉行折田平八(年昭)、軍賦役伊地知正治、助教今藤新左衛門(宏)、庭方重野厚之丞(安繹)を旗艦に遣わし、その来意を問はしめたり、・・・」
- ^ a b 当時のイギリス海軍には少佐 (Lieutenant-Commander) に相当する階級が無く、佐官は“Captain”と“Commander”二等級であった。19世紀前半までの“Captain”は「勅任艦長」、“Commander”は「海尉艦長」と一般的に訳されるが、この頃にはこれらは階級へと変化しており、役職名であるそれらの訳語も不適切である。よって、“Captain”は一等海佐とする。
- ^ a b c d e 当時のイギリス海軍では、“Lieutenant-Commander”は正式の階級ではなく、古参の“Lieutenant”に許される称号であった。また、尉官は(現在でも)二等級なので、“Lieutenant”は「海尉」とする。
- ^ 「・・・然れども未た宣戦の布告なきに、何を以て我が船を掠奪せんとするやと、抗論して肯ぜざりしも、・・・」
- ^ 「・・・突然にこの汽船の舷側に横着し、五六十人乱入したり。我が船員驚き一方ならず、しかして五代、松木等の船長にそれ引き渡しを要請せり。然れども未た宣戦の布告なきに、何を以て我が船を掠奪せんとするやと、抗論して肯ぜざりしも、遂に彼等の威嚇に力及ばず・・・」
- ^ 「・・・天佑丸にては、乗組員中に抵抗する者もありたるに依り之を捕縛し、・・・太鼓役の師匠本田彦次郞の如きは、敵の士官と闘争せんとしたる為め銃剣に突かれ、海中に飛び込み行方不明となれり、・・・吉留直次朗は佩刀を渡せ渡さぬと争ひしが背後より英兵に剣を以て突かれ、・・・」
- ^ 「捕獲に向かいたる五艦は脇元沖に至り、・・・」
- ^ 「旗艦の砲門に命中して甲板上に炸裂し、艦橋に在って指揮せる艦長・・・」
- ^ 「・・・船将外一人と3人で檣棚に上り、望遠鏡を以て砲台より発射することを認め、急に号令して各船戦闘の準備をなさしめる中、一丸飛来て第二の船将を打たおし棚をも打砕き、余外一人も墜落、その時左腕を傷め今なおかくのごとしと疵所を示せり。」
- ^ 「午後3時10分頃、200碼(ヤード)まで進撃して、遂に砲台前の浅瀬に擱坐し、船体はなはだ傾斜し、大砲を発射することは能はず、・・・或は伝ふ同艦は機械に故障あり、運転の自由を欠きしが、遂に吹き流され座州したるものなりと。」
- ^ 文久3年6月22日(1863年8月6日)出帆時とされる乗組員数を上段に引用(上段:総数1418人、下段との誤差89人)。
- ^ 「この日の戦、旗艦「ユリアラス」号に於いては、艦長、副艦長を始め即死10人、傷者21人(内死亡士官2人)合計死傷31人を出し、「パール」号にては傷者7人(内死亡士官1人)、「パーシュース」号にては即死1人、傷者9人(内重傷到死4人)、合計死傷10人、「アーガス」号にては傷者6人、「レースホース」号にては傷者3人、「コケット」号にては即死2人、傷者4人を出し、合計即死者13人、傷者50人(内7人死亡)総合計死傷63人を算すると共に最小艦「ハボック」を除く外、他の6艦悉くその艦體に大破小破を蒙り、中にも擱坐したる「レースホース」号は独自の航行力を失った。」
- ^ 暴発での負傷の程度を示すものとして、当時、戦闘に参加したイギリス士官の暴発についての逸話が残っており、40ポンドアームストロング砲#海軍での運用、110ポンドアームストロング砲#実戦の各記事引用で、暴発での負傷者が殆ど無かったことへの言及もある。
- ^ 「また我が砲台より発射したる一弾は第三番砲側に破裂し、そばに居合わせたる士官ならびに砲員の全部を死傷せしめ、その無事なる者はただ一人のみなりき。」
- ^ 「<71横浜英字新聞> 十インチの榴弾、我が甲板上に備えたる三番砲の傍らにて破裂し、其の処にある者七人死し、「リューテナント、セフリン」並びに外五人創を被れり。」
出典
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月3日閲覧。
- ^ 『元帥公爵大山巌』p.136[注釈 1]
- ^ a b c d e f g h i j k l 日本史籍協会『島津久光公實記(二)』pp.60-79
- ^ 『元帥公爵大山巌』pp.136-138
- ^ a b c d e f g アジア歴史資料センター、鹿児島戦争之英文新聞紙翻訳・全(画像資料:Ref.A07060050900 pp.26-34)
- ^ O'Brien, Phillips (25 December 2003). The Anglo-Japanese Alliance, 1902-1922. Routledge. p. 18. ISBN 1134341210
- ^ 『元帥公爵大山巌』pp.136-138[注釈 2]
- ^ a b c 『元帥公爵大山巌』p.136[注釈 15]
- ^ 『薩藩海軍史(中巻)』p.47[注釈 4]
- ^ 宮地正人著 『幕末維新変革史 上』 岩波書店 2012年 p.381
- ^ 『薩藩海軍史(中巻)』p.491[注釈 7]
- ^ “世界最強のイギリス海軍に挑んだ「薩英戦争」の思わぬ結末とは | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!”. 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!. 2024年4月10日閲覧。
- ^ 『薩藩海軍史(中巻)』p.491[注釈 8]
- ^ 『薩藩海軍史(中巻)』p.491[注釈 9]
- ^ 『元帥公爵大山巌』pp.128-129
- ^ 『藩海軍史(中巻)』p.491[注釈 10]
- ^ 『元帥公爵大山巌』p.128
- ^ a b 『元帥公爵大山巌』pp.129-130
- ^ 『元帥公爵大山巌』p.132[注釈 11]
- ^ 『藩海軍史(中巻)』p.636[注釈 12]
- ^ 『元帥公爵大山巌』p.132
- ^ 『藩海軍史(中巻)』p.498[注釈 13]
- ^ 『元帥公爵大山巌』p.135
- ^ 『元帥公爵大山巌』p.136
- ^ 『薩藩海軍史(中巻)』p.538
- ^ 『薩藩海軍史(中巻)』p.540
- ^ 『薩英戦争』朝日新聞社、1998。
- ^ 『元帥公爵大山巌』pp.136-137
- ^ 『元帥公爵大山巌』p.138
- ^ The Progress of the Japanese War. October 4, 1863., New York Times.
- ^ a b c d e f g h 『藩海軍史(中巻)』pp.362-363[注釈 14]
- ^ 『日本の戦艦』pp.144-147、「1863年、薩英戦争における新式アームストロング砲の大事故」
- ^ 『薩藩海軍史(中巻)』p.497[注釈 17]
- ^ 『藩海軍史(中巻)』pp.534-538[注釈 18]
- ^ NHK総合『その時歴史が動いた』2006年6月21日放送分『幻の大艦隊 〜イギリスから見た薩英戦争〜』
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