歓喜の歌 日本最初の演奏

歓喜の歌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/28 05:32 UTC 版)

日本最初の演奏

交響曲第9番を日本で初めて合唱付きで全曲演奏したのは、1918年大正7年)6月1日徳島県板東町(現・鳴門市)の板東俘虜収容所に収容されていたドイツ兵たちであった。当時、中国青島はドイツの租借地であり、日本は第一次世界大戦に連合軍側に立って参戦すると、ここを占領し彼らを捕虜として収容したのである。ドイツ人捕虜たちは、収容所長の松江豊寿大佐の人道的扱いによって自由音楽を楽しんでいた。このエピソードは『バルトの楽園』として2006年出目昌伸により映画化され、それ以前にもNHK連続テレビ小説なっちゃんの写真館」(1980年放送)などで取り上げられている。

なお「歓喜の歌」の部分だけの演奏は、板東における全曲の初演より早く、1916年(大正5年)8月20日、徳島俘虜収容所(徳島市)のドイツ兵により行われている。

また、歓喜の主題がメロディーとして日本人に知られたのはさらに古く、1912年明治45年)の『日曜学校讃美歌』では「ものみなうるはし ものみなたのし」の歌詞を付けて紹介されている。1917年(大正6年)の第一高等学校寮歌「とこよのさかえに」[5]も、歓喜の主題を使ったものである。

邦人としての初演は、1924年に九州帝国大学の学生オーケストラである「フィルハーモニー会」(現九大フィルハーモニーオーケストラ)が摂政宮殿下御成婚奉祝音楽会にて演奏したのが最初であるとされており、歌詞はドイツ語やその日本語訳ではなく、当時の文部省制定による「皇太子殿下御結婚奉祝歌」が用いられた。


  1. ^ a b LUDWIG VAN BEETHOVEN”. Loge Beethoven zur ewigen Harmonie. 2013年8月23日閲覧。
  2. ^ a b Symphonie zum Frieden 平和の交響曲” (PDF). 大阪教育大学 亀井研究室. 2013年8月19日閲覧。
  3. ^ シラー学者の内藤克彦は« Durch des Himmels prächt'gen Plan »を「天空の壮麗な平原を」と訳している。第3回愛環音楽祭「公演の部」事務局発行『 « An die Freude »の詩と真実-「第九」定訳への道』2001、47、64頁。
  4. ^ 「国立音楽大学演奏80年史 東京高等音楽学校・国立音楽学校時代 1926年-1950年3月」(昭和18年度 1943.4-1944.3;324〜325ページ)
  5. ^ 旧制第一高等学校寮歌解説
  6. ^ 日蓮正宗宗務院より創価学会宛ての第35回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね(平成2年12月13日)


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