ディエゴ・ベラスケス ディエゴ・ベラスケスの概要

ディエゴ・ベラスケス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/17 01:03 UTC 版)

ディエゴ・ベラスケス
Diego Velázquez
自画像
誕生日 (1599-06-06) 1599年6月6日
出生地 スペイン帝国セビーリャ
死没年 1660年8月6日(1660-08-06)(61歳)
死没地 スペイン帝国マドリード
国籍 スペイン
運動・動向 バロック
芸術分野 絵画
代表作 ラス・メニーナス, 1656年
鏡のヴィーナス, 1644年–1648年
ブレダの開城, 1634年–1635年
ほか多数
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生涯

修業時代

没落した貴族の家系とされてきたが、近年の研究では父方がコンベルソ(改宗ユダヤ人)の家系である可能性が高いとされている(父方の祖父ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバはポルトガルからセビーリャに移住しているが、当時多くのコンベルソがポルトガルから移動し、シルバなどの名を名乗っていた)[2] [3] 。スペイン南部の都市セビーリャに生まれ、11歳の頃に当地の有力な画家であるフランシスコ・パチェーコに弟子入りした。6年後の1617年、18歳のときに独立し、翌1618年には師匠であるパチェーコの娘であるフアナと結婚する。17世紀のスペイン画壇では、厨房画(ボデゴン)と呼ばれる室内情景や静物を描いた絵画が多く制作されたが、宮廷画家になる前のベラスケスも『東方三博士の礼拝』などの宗教的主題の作品、『修道女ヘロニマ・デ・ラ・フエンテ』などの肖像画とともに、この厨房画のジャンルに属する作品を描いていた。1618年に制作された『卵を調理する老女』などがその代表作である。1622年には首都マドリードへと旅行した。

セビーリャ時代 (1617-1622年) の代表作

宮廷画家

1623年、マドリードに2回目の旅行に行く。このとき、スペインの首席大臣であったオリバーレス伯爵ガスパール・デ・グスマンの紹介を受け (後に『オリバーレス伯公爵騎馬像』を制作)、国王フェリペ4世の肖像画を描いた。国王に気に入られてフェリペ4世付きの宮廷画家となり、以後30数年、国王や王女をはじめ、宮廷の人々の肖像画、王宮や離宮を飾るための絵画を描いた。

美術愛好家であったフェリペ4世は、ベラスケスを厚遇し、画家のアトリエにもしばしば出入りしていたという。当時、画家という職業には「職人」としての地位しか認められなかったが、フェリペ4世は晩年のベラスケスに宮廷装飾の責任者を命じ、貴族、王の側近としての地位を与えていた。

ベラスケスの作品では、画面に近づいて見ると、素早い筆の運びで荒々しく描かれたタッチにしか見えないものが、少し離れたところから眺めると、写実的な衣服のひだに見える。このような、近代の印象派にも通じる油彩画の卓越した技法が、マネらの近代の画家がベラスケスを高く評価したゆえんである。

1628年には、スペイン領ネーデルラント総督のイサベル・クララ・エウヘニアから外交官として派遣されてきたピーテル・パウル・ルーベンスと出会い、親交を結んだ。この年から翌年にかけて、『バッカスの勝利』(プラド美術館) を描いている。

1629年、美術品収集や絵画の修業などのためにイタリアへの旅行が許される。イタリアへ向かう船の中でオランダ独立戦争の英雄であったアンブロジオ・スピノラと同乗することとなり、親交を結んだ。イタリアではヴェネツィアやフェラーラ、ローマに滞在し、1631年にスペインへと戻った。この時、ローマで制作した『ウルカヌスの鍛冶場』(プラド美術館) と『ヨセフの衣を受けるヤコブ 』(エル・エスコリアル修道院) をスペインに持ち帰っている。また、イタリアでは『ヴィラ・メディチの庭園、ローマ』 (プラド美術館) を制作したと考えられている。

帰国後、1634年から1635年にかけて、新しく建設されたブエン・レティーロ離宮の「諸王国の間」に飾る絵の制作を依頼され、すでに故人となっていたスピノラ将軍をしのんで『ブレダの開城』を制作。他にも1637年以後には『バリェーカスの少年』、1644年には『エル・プリーモ』や『セバスティアン・デ・モーラ』(すべてプラド美術館) など多くの作品を制作し、役人としても順調に昇進していった。

1631-1649年の代表作

1649年には2回目のイタリア旅行に出発し、1651年まで同地に滞在した。各地で王の代理として美術品の収集を行うかたわら、『鏡のヴィーナス』や『インノケンティウス10世の肖像』などの傑作を制作している。

1649年ローマで『フアン・デ・パレーハの肖像』(メトロポリタン美術館) を制作した。この作品は、1970年11月27日にロンドンのクリスティー&ウッズで231万ポンドで落札されたとして、かつてギネスブックに「オークションで最高値の絵」として認定されていたことがある[4]

1651年に帰国すると、1652年には王宮の鍵をすべて預かる王宮配室長という重職につくようになり、役人としても多忙となる。一方で、1656年には『ラス・メニーナス』を制作し、1657年には『アラクネの寓話』、1659年には絶筆となる『マルガリータ王女』など、この時期においても実力は衰えず、大作を完成させていった。1660年にはフェリペの娘であるマリー・テレーズ・ドートリッシュとフランス国王ルイ14世との婚儀の準備をとりしきるが、帰国後病に倒れ、1660年8月6日にマドリードで61歳で死亡した[5]


  1. ^ 「新潮 世界美術事典」pp1323-1324 新潮社 昭和60年2月20日発行
  2. ^ 大高保二郎『ベラスケス』(岩波新書、2018年)p237。Otaka, Yasujiro (2000年9月). “An Aspiration Sealed”. Special Issue: Art History and the Jew. Studies in Western Art. 2007年12月8日閲覧。
  3. ^ SAMUEL, EDGAR (17 June 1996). “The Jewish ancestry of Velasquez”. Jewish Historical Studies 35: 27–32. doi:10.2307/29779978. https://www.jstor.org/stable/29779978.    Ingram, Kevin (1999)."Diego Velázquez's Secret History", Boletín del Museo del Prado, XVII (35): 69–85.  Newitt, Malyn (2009). Portugal in European and World History. London: Reaktion Books. p. 98. ISBN 9781861895196
  4. ^ ノリス・マクワーター, ed (1978). ギネスブック 世界記録事典 79年度版. 講談社. p. 124 
  5. ^ 「スペイン文化事典」pp122-123 川成洋・坂東省次編 丸善 平成23年1月31日発行
  6. ^ 『新訂増補 スペイン・ポルトガルを知る事典』pp312-314 平凡社 2001年10月24日新訂増補第1刷
  7. ^ 大高『ベラスケス』(2018年)p126。
  8. ^ a b 作品紹介3 『バリェーカスの少年』 ディエゴ・ベラスケスプラド美術館展ニュース、美術館ナビ、2017.10.24
  9. ^ “1年前に発見されたベラスケスの絵画、3.7億円で落札 英国”. AFPBB News. (2011年12月8日). https://www.afpbb.com/articles/-/2844558?pid=8176258 2020年2月27日閲覧。 


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