2004年式 (4代目)
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「ヤマハ・YZF-R1」の記事における「2004年式 (4代目)」の解説
スーパーバイク世界選手権のレギュレーション変更により、レースベース車へと大幅なモデルチェンジを行った。ヤマハ車としては初採用のラムエアシステムを装備(なお、FZR1000ではFAIと呼ばれる新鮮な空気を取り入れるシステムは搭載していた)、最高出力を172 PS(ラムエア過給時は180 PS)と、大幅に向上させる。またセンターアップマフラーも採用。ブレーキにはラジアルマウント式ブレーキキャリパーと、ラジアルポンプ式ブレーキマスターシリンダーを採用している。 なお2005年モデルより、カナダ仕様にもイモビライザーを標準装備した。
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2004年式
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「ポンティアック・GTO」の記事における「2004年式」の解説
2004年、ポンティアック・GTOは30年ぶりにアメリカで復活した。新時代のGTOはホールデン・モナーロのGM V-ボディをベースにしていた。モナーロはオーストラリアで開発された4ドアセダンである、VT/VXホールデン・コモドア(en:Holden VT Commodore)を2ドアクーペとしたものである。そしてそのコモドアは北米市場では1997年から2001年に掛けてキャデラック・カテラとして販売されていたものであり、その大元は1994年にヨーロッパのオペルで開発されたオペル・オメガBのボディを大型化して再設計したものである。 新時代のGTOリバイバルプランは元GM会長のボブ・ラッツによって強力に推進された。彼はオーストラリア出張の間、モナーロを運転しており、この車台に対する可能性を見出していた。そしてこのGTOはポンティアックにとっては1993年式ル・マン以来の北米市場への輸入車扱いの車種であった。 新しいGTOは、オーストラリアのGM子会社、ホールデンの手により南オーストラリア州エリザベスの郊外で生産された。変速機は6速MTか4速ATが選択でき、エンジンはV型8気筒GM・LS型エンジン(en:GM_LS_engine)のうち、シボレー・コルベットでも用いられた5.7 L 350馬力のLS1エンジン(Generation III)が採用された。北米ではGTOとして販売されたが、イギリスではボクスホール・モナーロ、中東ではシボレー・ルミナSS(en:Chevrolet Lumina)の名称で販売された。北米GMは2003年後半からGTOの生産を開始する決定を下し、2006年末までの3年契約で年間18,000台を生産する契約をホールデンと締結した。この18,000台の生産台数はエリザベス工場の生産能力の限度いっぱいであり、GMにはこの台数のGTOを年間で売り尽くせるであろうという強い期待を抱いていた。 こうして2004年のモデルイヤーに5代目GTOは北米市場に投入された。車体色はバルバドスブルー・メタリック、コスモスパープル・メタリック、クイックシルバー[要曖昧さ回避]・メタリック、ファントムブラック・メタリック、インパルスブルー・メタリック、トリッド・レッド、イエロー・ジャケットなど、メタリックカラーが主体であった。 しかし、GMの高い期待とはうらはらに、アメリカ国内市場の反応は素っ気ないものであった。5代目GTOは確かに古き良き時代のマッスルカーを現代に復活させたものとして相応しいボディサイズと、過給器に頼らない大排気量による高性能を有していたが、逆に言えばそのコンセプトは過去のGTOが築き上げたイメージの遺産にあまりにも頼りすぎたものであり、今日的な視点から見れば過剰とも思える大排気量エンジンによる高性能は、より現代的な空力ボディを持ち小型小排気量で高機動なスポーツ車の潮流とは余りにもかけ離れたものであったために、批評家からはしばしば「保守的すぎる」「個性がない」と揶揄された。 更にはGTOの極めて熱心な支持者からは、5代目GTOのボディラインに1960年代や1970年代のマッスルカーの象徴的なデザイン、例えばコークボトルや丸目4灯などの要素が殆ど取り入れられていない事、車体が米国内で組み立てられた純潔なものではない事、そしてそうした車両にGTOの名を冠する事を容認するGMの姿勢に非難が集まった。同時期にGTOと同様にリバイバルされたクライスラー・300、ダッジ・チャージャー、フォード・マスタング等がかつてのマッスルカー全盛期のボディラインやフロントマスクの特徴を、現代的な解釈で昇華していた事と対比されたことも、良くも悪くも普遍的なデザインであったGTOにとっては逆風として働いた。更にはそれらのライバルが特別にチューンされた大排気量エンジンを搭載していたのに対して、GTOの5.7Lエンジンは性能的にもやや見劣りする事は否めないものであった。 更にはGTOのセールスはディーラーの販売戦術のまずさによって更に鈍化した。例えば気軽な試乗を拒否したり、始めに過剰な利幅を見込んだ価格を顧客に提示し、その後大げさな程の値引きを提案するなどの露骨な行為などである。結局、モデルイヤー当初に品薄を意識したかなり強気な価格で販売されていたものが、モデルイヤー後半ではかなりの台数が大幅な割引価格で投げ売られる結果となった。2004年式の北米での総売上台数は、豪州での総生産台数15,728台の内の13,569台であった。年間18,000台を完売するというGMの強気な見込みは当初からつまづくこととなった。 モデルイヤー当初の売り上げの不振をカバーするため、本来2005年式より標準装備を予定していたボンネットエアスクープが、1年前倒しでディーラーオプションのスポーツ・アピアランス・パッケージ(SAP)として投入される事になった。SAPには、より大型で急角度のリアスポイラーや、より開口部のリセスが深くなった専用フロントグリルが含まれていた。 2004年モデルイヤーの終盤には、GTOの40周年記念モデルを意味するとも言われるW40パッケージが発売された。W40パッケージ車は車体は特別色のパルス・レッド、メータークラスターは灰色で塗装され、シートには赤いGTOの刺繍が施されていた。2004年式のうち最後の800台がこのW40パッケージとして製造され、そのうち794台が市場で販売された。
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