関白任官と紀伊・四国・越中攻略
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「豊臣秀吉」の記事における「関白任官と紀伊・四国・越中攻略」の解説
天正12年(1584年)11月21日、従三位権大納言に叙任され、これにより公卿となった。この際、将軍兼任を勧められたがこれを断る。 天正13年(1585年)3月10日、秀吉は正二位内大臣に叙任された。そして3月21日には紀伊国に侵攻して雑賀党を各地で破っている(千石堀城の戦い)。最終的には藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させることで紀伊国を平定した(紀州征伐)。 四国を統一した長宗我部元親に対しても、弟の羽柴秀長を総大将、黒田孝高を軍監として10万の大軍を四国に送り込んでその平定に臨んだ。毛利輝元や小早川隆景ら有力大名も動員したこの大規模な討伐軍には元親の抵抗も歯が立たず、7月25日に降伏。元親は土佐一国のみを安堵されて許された(四国攻め・四国平定)。 秀吉はこの四国討伐の最中、二条昭実と近衛信輔との間で朝廷を二分して紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に介入し、近衛前久の猶子となり、7月11日には関白宣下を受けた。 関白辞令の宣旨 權大納言藤原朝臣淳光宣、奉勅、萬機巨細、宜令內大臣關白者 天正十三年七月十一日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉 奉 — 「足守木下家文書」 右の[表示]をクリックすると読み下し文を読むことができます → 権大納言藤原朝臣淳光宣(の)る。勅(みことのり)を奉(うけたまわ)るに、万機(ばんき)巨細(こさい)、宜しく内大臣をして関白にせしむべし者(といえり)。天正13年7月11日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉 奉(うけたまわ)る 関白辞令の詔書 詔、以庸質當金鏡、妥政績於通三、以愚昧受瑤圖、增德耀於明一、夢不見良弼、誰能諫言、內大臣藤原朝臣、名翼翔朝、威霆驚世、固禁闕之藩屛、忠信無私、居藤門之棟梁、奇才惟異、夫萬機巨細、百官惣己、皆先關白、然後奏下、一如舊典、庶歸五風十雨之舊日、專聽一天四海之艾寧、布告遐邇、俾知朕意、主者施行、天正十三年七月十一日 — 「天正六年以來關白詔勅書」 右の[表示]をクリックすると読み下し文を読むことができます → 詔(みことのり)して、庸(ひととなり)を質(もち)いて金鏡に当て、政績(せいせき)通三(つうさん)に妥(やすん)ず、愚昧(ぐまい)を以て瑤図(ようず)を受け、徳耀(とくよう)明一を増す、夢良弼(りょうひつ)を見(あらわ)れざれば、誰か能く諫言を納れむ、内大臣藤原朝臣、名は朝(みかど)を翼翔(よくしょう)し、威霆(いてい)世に驚かす、禁闕の藩屛を固くし、忠信私無し、藤門の棟梁に居(すわ)りて、奇才惟(ただ)異にす、夫(そ)れ万機巨細、百官を己(みずから)惣(す)べ、皆先んじて関(あずか)り白(もう)す、然る後、奏下すること一(もっぱ)ら旧典の如く、庶(もろもろ)五風十雨の旧日に帰す、専ら一天四海の艾寧(がいねい)を聴(はか)り、遐邇(かじ)に布(し)き告げて朕の意を知ら俾(し)めよ、主者施行(しゅしゃしぎょう)せよ、天正13年7月11日 8月から前年の小牧・長久手の戦いを機に反旗を翻した越中国の佐々成政に対しても討伐を開始したが(富山の役)、ほとんど戦うことなくして成政は8月25日には剃髪して秀吉に降伏している。織田信雄の仲介もあったため、秀吉は成政を許して越中新川郡のみを安堵した。こうして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定されたのである。また年末、天正地震が中部を襲った。 閏8月末には、家康が真田領に侵攻したが、10月に秀吉が仲介に入り和睦した。 同年秋、秀吉は金山宗洗を奥羽の諸領主間の和睦と調査のために派遣した。宗洗はその後、天正14年(1586年)末から15年春と天正15年(1587年)末から16年秋の3回にわたって奥羽入りし奥羽諸領主との折衝に当たった。 この年に家臣の脇坂安治宛の書状で、追放した者を匿うことのないよう警告として「追放した者を少々隠しても信長の時代のように許されると思い込んでいると厳しく処罰する」としている。 「奉公構」も参照 天正14年(1586年)9月9日、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、12月25日には太政大臣に就任し、ここに豊臣政権を確立させた。 豊臣秀吉の読みは源頼朝・平清盛らとおなじく(とよとみのひでよし)が正しいと思われる。称号(家名)は変更された形跡が無いため羽柴(もしくは近衛)のままであった。 また、これより前に徳川家康に対しては融和策に転じており、同年5月に妹・朝日姫を家康の正室として嫁がせ、さらに9月には母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促した。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。だが、結果的には秀吉は家康を軍事的に服属させることには失敗して不完全な主従関係に止まり、家康と北条氏の婚姻同盟関係は継続した。家康は北条氏と秀吉の間では依然として中立の立場を保持する一方、秀吉は徳川氏の軍事的協力と徳川領の軍勢通過の許可が無い限りは北条氏への軍事攻撃は不可能になった。そのため、秀吉は東国に対しては家康を介した「惣無事」政策に依拠せざるを得ず、西国平定を優先する政策を採ることになった。
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